2009年1月31日土曜日

納棺夫日記

辞書にもない言葉「納棺夫」。亡くなった方を棺桶(かんおけ)に収める仕事をする人のことで、この本の作者の青木新門さんの造語とか。今年のアカデミー外国語映画賞の最終選考に残った「おくりびと」の原作です。

一旦読み出したら止まりませんでした。母のお昼やトイレ介助ももどかしく(もちろんChuckが何を騒ごうとも耳を傾けず・・・)読み切りました。

納棺夫としての仕事への戸惑い、周りからの偏見。電車に飛び込んだ遺体を、鑑識課のベテラン刑事と二人だけで処理する場面など、今まで想像もしなかった現場の状況が目(ま)の当たりに浮かんでくるほどでした。

死をタブー視する現代において、自分自身が死を直視していなかったことに気づき、納棺の作業に赴(おもむ)くとき、身だしなみを整え、所作(しょさ)にも気遣うことで、死者の尊厳を守ろうと努力するようになった作者に、「先生様。私が死んだら先生様に来てもらうわけにはいかんもんでしょうか」と真剣な顔で懇願する老婆の話。

そして、納棺夫の仕事から見えてくる、人間の心模様、近代医学への疑問、などなど内容はドンドン深まっていくのです。

圧巻は、「ひかりといのち」という第三章です。死者と向き合う仕事を続けながら、宗教書を読みあさった作者は、親鸞の説く「不可思議光」ということばにたどり着きます。死を直視した人だけが目にすることが可能な強烈な光について、仏教の各宗派の教えやキリスト教などを比較しながら、解き明かしていくのです。

若い頃に作家を目指したこともあった作者ですが、現在でも「作家」と呼ばれることが不思議だと言います。「原稿用紙を無駄に埋めていた日々」もあったとの一文がありますが、この本に関しては、突き上げてくる何かに押されて書いていたようです。

仏教知識の豊富さ、引用の巧みさも感心するのみ。科学と宗教のつながりも含めて、内容の何と豊かなこと。一気に読み終わるのではいけない、もう一度じっくり読み返さなければ、と思わせるのです。

付箋(ふせん・ポストイット)を貼り付けながら読んだのですが、以下は色違いの大きな付箋を付けた文章です。

 人が死の概念の真の回答を得るには、自らが死に直面して体得するか、あるいは如何なることがあっても平気で生きている人(人間はそういう人を菩薩とか聖人と称してきた)から直伝(じきでん)されるしかない。
 
そして、もし生者がその真理を体得するなら、永遠の中の一瞬の人生が、どれほど大切で、どれほど尊いか実感する。と同時に、生かされて生きていることが喜びとなって、如何なる場合でも平気で生きてゆくことができるようになる。


 そのことが、仏教のいう「悟り」なのだと思うようになった。

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