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2018年3月11日日曜日

7年目

現在使っている10年日記
最初の年は2011年

3月11日のページには
「一体なにが起こったのだろう」と
戸惑いを記している私

日を追うごとに
原発事故の記述が増えてきます


それから7年分のスペースが埋まりました

あの日の戸惑いに答えは出ていないような
そんなことを7年目に感じます

2016年5月26日木曜日

ネパール地震から一年

2015年4月25日、ネパールを襲った大地震。9000人近い死者、70万棟近い建物が全半壊したという政府発表。一年たった今も政府からの支援金の一部が受け取れたのは、641世帯のみという新聞記事。実際の被害の把握もできていないのが実情であるようです。

ネパール出身の私の友人も、ふるさとの村に作った小学校が大きく壊れ、復興のために寄付を募っています。一年経ってもまだがれきの処理も住んでいない山間の村も多いようです。

昨年9月からのインドとの国境が封鎖で、石油などの輸入が止まったことも復興の大きなブレーキになったとか。大きな災害のあと、復興の道のりはまだまだ遠いようです。

新聞記事に胸を痛めていたら、最近、ネパールを訪問した方の投書が目に留まりました。

「無惨に壊れたままの寺院や建物もあったが、住民の表情は以外だった。途中で通った村々では、子どもも親もみな、明るい雰囲気を漂わせているのだ」

「決して裕福ではなく、生活は日本の昭和30年代前半ごろの感じ。暮らしは不便に違いない。それでも互いに寄り添い、地域で自分の子も他人の子も同じように育て、支え合って暮らしている。こころの暖かさ、豊かさを感じた」

読み終わってホッとできた記事。ネパールの、そして熊本地震の被災者の方々の笑顔を思い浮かべていたいと思います。



2016年5月6日金曜日

災害時のメディア

今回の熊本大地震報道に関して、あれこれ話題になっています。大災害の時には「絵になる」被害状況を求めるマスコミ。その動きに対する被災者の怒りが爆発した場面が放映されたり。

ダイヤモンド オンライン版に「マスコミが被災地で繰り返し暴走するのはなぜか」という記事がありました。長めの文章ですが、過去の大災害時のマスコミの取材姿勢がよくわかります。

マスコミが取材しようとしているものは、私たちが見たいと思っている内容、もしくは「見たいはず」とマスコミが思っている内容のはずです。現場の惨状をオンタイムで見ることを要求してきたのも私たちなのです。

その現場で一番必要なことを考えれば、そこまでマスコミに報道を要求すべきでないのは明らかです。見たい人がいるから・・とマスコミが突っ走ることのないように、みんながもっとおとなにならないと。

こちらは朝日新聞に掲載されたジャーナリスト津田大介さんのあすを探る メディア。今回の熊本大地震で見られた既成のメディアとSNSの連係を記しています。(津田大介さんはインターネット関係に強い金髪の方)。震災報道の新しい可能性が提示されています。

2016年4月25日月曜日

静かな午後

久しぶりに家に居た日曜日の午後。お気に入りのNHKFMの「きらくら」を聞いていました。

熊本地方の被災者の方々を気遣うMCのコメント。いつものように心地よい笑い声が聞こえる放送の中でも、一つ一つの曲を通して被災地に届いて欲しいという想いが伝わってきます。

多くの人たちと気持ちを共有しているようなひととき。静かな曲を聞きながら、私自身のこころが癒される午後でした。



PS:京都3区補欠選挙、投票率30.12%は今までの補欠選挙の最低だったとか。
4月13日のブログで書きましたが、経費2億3千万円が使われたことに今改めて疑問に感じてしまいます。政治のための必要経費なんでしょうが・・・


2016年4月20日水曜日

介護する人

余震というには大きすぎる地震が続く被災地。先の見えない避難生活の続く多くの方々。その中で、老人ホームの介護職員の奮闘ぶりをテレビで目にしました。

老人9人を抱えるあるグループは、一旦避難所に行ったけれど、排泄の世話があるので、避難所の中には入らず、建物のひさしの下に身を寄せていました。そして、雨の予報にビニールの急作りの屋根を張って備えていました。

その場所で限界を感じたグループは、耐震診断で「危険」と判断された老人ホームに戻っていったのです。一階の入り口に近いところに9人のお年寄りが身を横たえていました。余震による建物の倒壊の心配がある中、介護の方はお年寄りのプライドを優先して戻って行ったのです。

大きな地震から、24時間、いっときも気の休まる時はないはずです。自身の体力の限界を超えて家族では世話ができないお年寄りを介護するスタッフ。どこからその気力、優しさが生まれてくるのでしょうか?自分のことよりお年寄りのことを考えることのできる介護の人たち。ただただ尊敬の念を深めるのみ。

お年寄りも介護スタッフも安心して過ごせる場所に一刻も早く移ることができますように・・・

朝日新聞の記事

 

2016年4月17日日曜日

大地震

「携帯を見るたびに、新しい地震の情報が入ってくる・・・」
と話したのはアメリカ在住の娘
インターネットニュースで熊本の大地震の情報を見ているようです

1995年の阪神大震災の日には京都に戻っていて
翌日、アメリカの大学に帰った娘

2008年6月14日に発生した岩手・宮城内陸地震にも遭遇
「ずっと揺れているような、あの感覚を思い出してしまう」
「それが今、九州で続いているんだよね・・・怖いね・・・」

私以上に、実感として余震の怖さを知っているようです

14日夜の地震が一番大きいと思っていたのに
15日深夜の地震が本震だったとは・・・

「今後、何が起こるかは正直わからない」
地震の専門家がそう言う今回の大地震

一刻も早い終息を、と願うばかりです




2016年4月10日日曜日

外からのかけ声

阪神大震災の時、神戸のあちこちで見かけたことば「がんばろう 神戸」
震災後「がんばれ」と言わないで、という被災者の声が出てきたあとのことば
みんなで一緒にがんばっていこう、という気持ちがあることば・・・のはず

「外からのかけ声への違和感」という文字が3月末の天声人語の中に
「復興、復興と、何だか16ビートで追い立てられ続けているというか・・・」

被災地に暮らす人にとって、復興は一律ではなく、それぞれ個人のもの
一人一人が時間をかけて生活を立て直していこうとする試み
新しい街が、駅ができたからといって、自身の復興が急に歩みを早めるものでなし

震災後5年という時間がそれぞれの立場をいやが応でもはっきりさせる


阪神大震災の時の足湯ボランティア
足の踏み場もないような大きな体育館の情景よりも
大きな体育館にポツンと残されていた被災者の姿が今もあざやかによみがえる

「外」の人ができること、かけ声をかけることではない、それだけは確か

2015年4月28日火曜日

ネパールの大地震

4月25日、日本時間午後3時11分に発生したネパールの大地震。すぐに日本在住のネパール人の元留学生二人にメールしました。「家族は無事でした」と二人からは翌朝に返信がありました。知り合いの家族が無事であったことにホッとした私でした・・が、その後の報道で、被害の大きさにただただ驚くばかりです。

首都カトマンズ出身の女性のご両親は、余震が続く中、地震発生直後屋外に避難していたようですが、広場は人であふれ、横になれないほどだったので、家に戻ろうかどうしようか思案していたとか。カトマンズから車で4時間近く東にある村の出身の男性の家は壁にひびが入り、近所には倒壊した家屋もあったようです。

地震発生から3日、生存の可能性のリミットと言われる72時間が近づきます。がれきの下に、そしてヒマラヤの雪崩の下に閉じ込められている人たちに救援の手が届きますようにと祈るばかりです。

登山家野口健さんのブログに地震発生後のヒマラヤ地域のことが詳しく掲載されています。

2015年1月19日月曜日

「あくまがこわい」

「悪魔がこわい」なら普通の表現。このことばを聞いた時の意味は「空く間がこわい」というもの。

ラジオ放送では音のない時間ができることが一番「「こわい」というのです。耳だけから情報が入るラジオでは、音がなくなってしまうと「どうしたのかな?」ということになるようです。


1月17日午前5時46分、一分間の黙祷の時間です。早朝からスイッチをいれていたラジオをウトウトしながら聞いていて、黙祷の時間が近づいたので、ベッドの上に座りました。「黙祷」ということばで一瞬の沈黙。ですが、一分の間にもアナウンサーの声が入ります。「会場のあかりが落とされました」「みなさんの顔をろうそくの炎が照らしています」「神戸三宮東遊園地、ほとんど音のしない中、みなさんが静かに祈りを捧げています」(黙祷の場面が再放送されていたので、正確なコメントが記述できました。黙祷中に覚えられた、なんてことはあり得ません!)

たった一分なのですが、こんな場合でもやはりラジオ放送は「あくまがこわい」のですね。沈黙の一分間があってもいいのに、と思いました。


2015年1月17日土曜日

20年


あの日の朝のど〜んと突き上げる揺れ
まだはっきり身体がおぼえています

大きな体育館の避難所
避難している方にそっと声をかけて
足湯をつかっていただきました

息子と同い年のご子息を亡くされた方の手紙に涙しました

これからもこころにとめておきたいのです
あの震災のことを
亡くなった方々のことを
辛い想いをなさった方々のことを


2014年3月10日月曜日

心のケア #1

1995年の阪神淡路大震災直後、通訳仲間から連絡がありました。現地で通訳をしてほしいとの依頼に参加できるかどうか、という問い合わせでした。

災害や事件直後に被害者のサポートをするアメリカのチームが被災地で活動する計画があるとのこと。自分がお役に立てるのであれば、と思いましたが、通訳を通したカウンセリングが被害にあった方々にとっていいのかどうか、何となく納得できない気持ちでした。

結局この計画は中止になったようでした。海外からの
「サポートしたい」という気持ちはありがたいとしても、実現は無理と判断されたのでしょう。それでよかったのだと思います。

東日本大震災、原発事故から丸3年を迎えようとする今、心のケアの大切さが改めてあちこちで言われています。とてつもなく大きな生活の変化を経験した方々にとって、3年という月日は全てを解決できる長さではありません。高齢化や病気の理由で、日々の生活そのものがより大変になっている方々も多くいらっしゃるはずです。

この時期、私たちにできることは、まず「忘れないための努力」だと思います。想いを馳(は)せることです。たとえ個人的に被災者の方々の顔や名前を知らなくても、3・11を迎える今、それだけは忘れないでいたいと思います。

2013年1月17日木曜日

震災後18年

阪神大震災から18年となりました。1995年1月17日、午前5時46分、京都で感じたあの大きな縦ゆれをまだ身体が覚えています。

阪神大震災について、毎年、的確なコメントをなさる内橋克人氏のビジネス展望を聞きました。

現在の状況は・・・

  ・被災者の高齢化が進み、孤独死が増加傾向

  ・災害援護資金の返済に苦しむ人の存在

  ・借り上げ住宅(民間から借り上げて家賃支援のある住宅)の
    期限(20年)が近づいて、住み慣れた地域からの
    「住み替え」を迫られる人たち

  ・巨大再開発事業(例:神戸市長田地域、40ha)の停滞と、
    住民の不満の増加


東日本大震災の復興を考える時、阪神大震災のこの経過をふまえ、「復興」とは何かを改めて考えるべきであり、生存者にとっての真の意味での「人間復興」の重要性を話され、そのためには、社会全体が変わっていかなければならない、と強調された内橋氏でした。

全国に散らばり、ふるさとに戻れない日々を過ごす県外避難者。どこに居住していても、全国共通で生活再建がサポートされる政策作成が、阪神大震災と東日本大震災、いずれの被災者にとっても急務であるとの提案がありました。


2012年1月17日火曜日

17年


突き上げる突然の揺れ
テレビには倒れたビルの映像
同じ火曜日の1月17日
17年前のことが今もはっきりよみがえります

今年は川を遡(さかのぼ)る津波の映像がオーバーラップします

自然の圧倒的な力
その美しさに声をのむことも多いのに・・・

2011年12月12日月曜日

カウンセリング

1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災。その2週間後ぐらいだったと思います。友人からの連絡があり、通訳のボランティアができないか、というものでした。アメリカの心理学者たちが被災者のカウンセリングのために日本に来る予定を立てているというのです。

「そりゃ無理だな・・・」と思いました。被災してまだ時間がたっていない状態で、それも通訳を通したカウンセリングは、受ける人にとって辛いだろうな、と思ったのです。結局、その計画はなくなったようです。

カウンセリングは技術を身につけなくてはいけない仕事で、かつ経験が必要です。クライアントの状況を冷静に観察しながら、こころの問題をほぐしていかなければなりません。ですが、マニュアルに沿っただけのカウンセリングであれば、それは決してクライアントのこころに届くことはないはずです。カウンセラーの「思い込み」があったりする場合はなおさらです。

先日の早朝、何気なくラジオのスイッチを入れたら、「被災者の方と一緒に泣いてしまったのです。本当に二人で泣きました。でもそのあと、被災者の方も私も、とても気持ちがすっきりしたのです。初めて本物のカウンセリングをした気持ちになりました」と聞こえてきました。

東京大学社会学部教授の玄田有史(げんだゆうじ)さんでした。希望の社会科学、つまり「希望学」を提唱していらっしゃる方のようです。

寝ぼけていましたから、はっきり覚えているはずはないのですが、なぜか「一緒に泣いた」というところを鮮明に覚えています。被災者の方の苦しみにそっと寄り添った、その姿を思い浮かべることができたからだと思います。これこそがカウンセリングの真髄です。

2011年9月26日月曜日

下方比較

下方比較:自分より運の悪い人、つらい立場にいる人と比べ、「自分はまだましだ」と思う感覚

「自宅は全部流されたが家族は無事。もっと大変な人が周りにはいる」

東日本大震災から半年以上たっても、悲しみの感情を表に出さない被害者の方々。被災地以外でも、放射能に対する漠然とした不安などの中で、同じように「下方比較」で自分の気持ちにふたをしている人たち。

悲しみの感情に向き合わないと、次第に悲しみが沈殿し、より深刻になると、自分自身の感情を「否認」し、うつ状態になる可能性が高まる。

被災地で援助活動に関わった人たちの中にも同じような感情が広がっているとか。

「不幸の比較」はいけない。喪失や悲しみを受け止める力を育てていかなければならない。

震災後のスローガン「がんばろう」ではなく、「弱くてもいいんだよ、助けてって言っていいんだよ」というスローガンを流すことが、被災者を含めてこころの中に悲しみを抱える多くの人の心のケアの第一歩になる。

この記事を読んで、震災後、日本人の全てが(多分もっと多くの人が)感じる不安を、お互いにケアしていくことがとっても大切なんだと思いました。

みんなそれぞれに不安なんですよね。だからこそ、誰かと一緒にいたいのですよね。誰かに聞いてほしいのですよね。本当に辛い時は、「助けてよ」って言っていいのですよね。

2011年8月22日月曜日

社会転換の方向を考える

NHKラジオ早朝の番組、ビジネス展望。内橋克人(うちはしかつと)さんの時間は、できるだけちゃんと聞くことにしています。阪神大震災以降、内橋さんのコメントはいつも、深い意味が含まれているのを感じているからです。

今回のタイトルは「社会転換の方向を考える」。

現在の経済の停滞から抜け出すために、今回の大震災は「千載一遇(せんざいいちぐう)のチャンス」だという世論が強まってきている。小泉改革以降、格差がある社会こそ、活動する社会だとして、日本はバランスの取れない、不均衡な国となってきた。その不条理を多くの人が感じてきていたのに、震災以降、市場が成長することが第一という、市場主義、経済主義が復活しようとしている。

未曾有な被害を受けた被災地の復興を考える時、今までと同じではいけない、日本を変えなくてはと、誰しも考えたはずなのに、以前と同じ感覚で経済復興をしようとしている人たちがいて、その考え方をメディアも懲(こ)7りずに伝え続けている、と内橋さんは警告します。

復興需要を当てにして経済を大きくしようという考え方は、「不幸が日本を襲えば襲うほど、日本経済が復興する」という、何とも奇妙で恐ろしいもの。

日本は今、生活者にとっての幸せは何かを真剣に考えて社会転換の必要がある、と言う内橋さんの4つの提案です。

1.弱者の雇用が可能になる構造転換
2.浪費なき国民経済:エネルギー、食料を考える
3.原子力からの脱退:エネルギーデモクラシー
4.経済成長市場主義の克服


PS: 2011年1月4日掲載、内橋克人さんを書いたブログです。
けやき便り: 実験的社会システム

2011年6月7日火曜日

「災害がほんとうに襲った時」

1995年の阪神大震災。精神科医の中井久夫神戸大学名誉教授が書かれた、発生直後からの50日の記録「災害が本当に襲った時」

今回の東日本大震災直後の3月20日からインターネット上に無料公開されました。ノンフィクション作家、最相葉月(さいしょうはづき)さんからの依頼に、被災地での医療従事者の参考となれば、という趣旨で、本そのものの無料公開となったのです。
東北関東大震災下で働く医療関係者の皆様へ――阪神大震災のとき精神科医は何を考え、どのように行動したか

私は、東日本大震災直後の中井先生のコメントを含めて4月に発行された新版を読みました。

中井久夫先生のお名前は1995年頃、友人から聞いた記憶があります。先生の診察を受けたことがある、その友人は、先生の穏やかな診察ぶりをとても「気に入った」と話してくれたものでした。

それ以降、新聞などの先生のコメントをマメに切り抜き、何度も読み返していました。ラテン語をはじめとして、語学にも堪能で、詩の翻訳もなさり、エッセイストとしても著名な先生の文章はとてもすてきです。

阪神大震災直後、神戸大学医学部精神科の医師・看護師たちがどのように活動したか。医療者にとってどんなサポートが必要だったか。助っ人の医師派遣をどのように受け入れたか。患者さんたちに何が大切だったか。多くの情報が日付を追って書かれています。

病院に届けられたお花がどれほど医療者と患者のこころを慰めたか、という記述には、「さもありなん」と同感し、葬儀にもお花が手に入らなかった、今回の大震災の場面を思い出して、またこころがキュッと締め付けられたり。この本をよみながら、二つの大震災がオーバーラップしてきました。

阪神大震災とは被災地の大きさも規模も違う今回の東日本大震災。ですが、中井先生のこの本には、先生ご自身の精神的、肉体的不調も含めて、大きな災害に遭遇した時の人の対応がありのまま書かれています。少しでもお役に立てば、という先生の想いは色んな方々に通じていることと思います。

「災害においては柔らかい頭はますます柔らかく、硬い頭はますます硬くなることが一般法則なのであろう」ということば、一番こころに残りました。

2011年4月14日木曜日

ふんばれ!


阪神大震災のあと、被災者の方々から「がんばれ、とはいわないで」という声があがりました。一生懸命がんばっているんだから・・・という気持ちからだと思います。その後は「がんばろう神戸」というキャッチフレーズが生まれました。みんな一緒にがんばろう、なんですね。

新聞の写真に「南三陸町」の被災した魚屋さんのお店の残った鉄骨に「ふ・ん・ば・れ」と四つの文字が並んでいました。がんばれ、とは違うニュアンスを感じます。しっかり足を地面につけて、力を込めて先に進んでいこう、そんな感じがするのです。

東北の方々の粘り強さ、それを感じる「ふんばれ」。被災者の方々も、日本中の全ての人が「ふんばれ」と声をかけていかなければならないこの時期。今後日本がどのような国として立ち直っていくのか。本当にここは「ふんばりどころ」。

何をそしてどんな日本を将来の世代に残していきたいのか、ここはみんなでふんばって考えていくことにしましょう。

2011年4月1日金曜日

ボランティア


1995年の阪神淡路大震災は日本のボランティア元年だと言われます。多くの人たちがボランティア活動にはせ参じ、当初の混乱の中から、ボランティアを上手にコーディネートするしくみも生まれていきました。その後の中越地震などの時にも、ボランティアの人たちが復興のお手伝いをしたのです。

今回の東北関東大震災直後からボランティアについての動きが始まったようです。ただ、今回の震災は、あまりにも規模が大きく、地域も広く、組織に属さないボランティアたちにとって、どうやって活動したらいいのかが、わからなかったはずです。

そこで立ち上げられたのが東日本大震災支援全国ネットワークです。「おたがいさま」の精神でやっていきたい、という設立メッセージ、とてもすてきです。やれることを、必要な人に届けたい。そのためにもこのようなネットワークが必要です。物品の寄付、義援金も受け付けるようです。

1995年には、インターネット上での情報収集は今ほどできなかったのですが、今回は、被災者自身からの発信も含めて、本当に多くの情報が飛び交(か)っています。中には不正確な内容だったりするものもありますから、読む側の正確な判断が要求されることになります。

善意が善意として被災者の方々の元に届くように、ボランティアのネットワークに期待します。



2011年3月28日月曜日

選手宣誓文


3月23日、選抜高校野球の開会式を横目で眺めながら、翻訳作業をしていた私。岡山の創志学園の野山慎介主将の選手宣誓を聞いて、思わず「すごい!」と拍手してしまいました。

彼のこの宣誓に全国から大きな反響が寄せられていると、朝日新聞にありました。私のように感激した人が一杯いたのですね。

声を張り上げることなく、よく通る声で全国に発信したこの選手宣誓。全文が掲載されていましたので、打ち込みます。

「私たちは16年前、阪神淡路大震災の年に生まれました。今、東日本大震災で多くの尊い命が奪われ、私たちの心は悲しみでいっぱいです。被災地ではすべての方々が一丸となり、仲間とともにがんばっておられます。人は仲間に支えられることで大きな困難を乗り越えることができると信じています。私たちに今できること。それはこの大会を精いっぱい元気を出して戦うことです。がんばろう、日本。生かされている命に感謝し全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います」

開会式当日の試合には負けてしまったけれど、新2年生だけの、創部一年で選抜に出場した創志学園。主将のこの宣誓とともに、多くの人のこころに暖かい風を届けてくれました。