ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年10月21日日曜日

とがった大学

日本電産を創業した永森重信氏は今年の3月から京都学園大学の理事長に就任。来春から京都先端科学大学と名称変更し、私財を投じてこの大学を「とんがった大学」にするとしている。

一流大学を卒業した学生でも英語は話せない、専門分野での実力もなく、多くが即戦力ならない。日本電産社員の卒業大学と入社後の仕事や昇進のデータベースによると、出た大学と偏差値は仕事のできとは全く何の関係もないと判明。

日本の教育がブランド主義と偏差値教育に偏向しているのが原因と永守氏は指摘。自分が本当にやりたいことを考える(みつける)ことなく、単に有名大学を目指す受験生たち。「ろくに遊びもせずに塾に行き、家庭教師をつけてもらって入試に受かるための勉強ばかりしている」という永守氏のことばは現在の受験生の多くを的確に表している。

将来はイギリスの教育専門誌「タムズ・ハイヤー・エデュケーション」の世界大学ランキングで199位までに入ることを目標としているとか。日本では東京大学が46位、京都大学が74位で、その他の大学は200位以下にランキングされているのが現状。できれば10年で達成したいが20年かかるかもしれない、という遠大な構想。

永森さんはご自身の経験から「教育は人間の行動を変える」との信念を持ち、教育によって学生たちの意欲を引き出し、将来への道が開かれるようにしたいという。グローバル人材の必要性が言われて久しいけれど、世界を股にかけて事業展開できる人材を育てるという大きなプロジェクトが京都でスタート。


2018年10月17日水曜日

光のデザイン

エッフェル塔が日の丸デザインに照らし出されたのは9月13日。日仏友好160周年記念ジャポニズム2018の特別照明イベント

東京駅や多くの施設で人気なのがプロジェクトマッピング。建物をスクリーンに見立てた映像上映。音楽とシンクロすることも多く、見慣れた建物がまるで動いているような、そんな雰囲気に。

エッフェル塔は骨組みの構造物、凹凸があるとしても平面の壁とは大違いで普通に照明を当てたとしてもうまくいかない。日の丸だけでなく今回は有名な尾形光琳の「燕子花図屏風」(かきつばた)を照らし出す計画。

黄金色の光をLEDで作りだし、それをバックに燕子花が浮かび上がる。静止画像では鉄骨上では平面の絵として認識できないが、ゆっくり動かすことで、人間の目に残像が残り頭の中で全体像が再構築される。そんな人間の持つ錯覚の力も利用した作品づくりだったとか。

世界初の女性照明デザイナーと紹介される石井幹子(もとこ)さんとお嬢さんのリーサ明里(あかり)さん、お二人の光の世界が大きく広がったエッフェル塔のライトアップ。

2018年10月15日月曜日

樹木希林さんのことば

9月15日に亡くなった樹木希林さん

新聞やネット、そしてテレビで彼女のことばに多く触れました

樹木希林名言集というページを発見

彼女の生き様を簡潔に表すことばが並んでいます
全てを一気に読むには大変ですが・・・


自分の立ち位置がはっきりした生き方
常識や世間の目からは全く自由な発想
特に死に関する考察は見事です

折に触れて読み返してみたいと思います

2018年9月26日水曜日

年輪

バイオリニスト黒沼ユリ子さん
おん年78歳
切符を頂いてコンサートへ

チェコのプラハでバイオリンを勉強
そこで出会ったメキシコ人と結婚
メキシコを拠点とした音楽活動
メキシコの子どもたちに弦楽器を教える
「アカデミア・ユリこ・クロヌマ」
音楽家だけでなく
世界で活躍する多くの人材を輩出
2014年に日本に帰国


プログラムはチェコの作曲家ドボルザークの作品
ベートーベンのソナタやメキシコの作家の曲も

軽妙な曲目解説
「話し出したら止まらないの、私」と

「今日がラスト・ステージかな・・・」
近年コンサートの前には必ず自問するとか

ご自身の音楽の世界を惜しみなく表現されたコンサート
ピアニストとの間合いも絶妙
黒沼さんの年輪を感じる何とも暖かい舞台
素晴らしい人生の先輩に出会えた夜でした

2018年9月21日金曜日

ピースディ


9月21日はピースディ

2001年9月に国連が国際平和デーとした日
世界各地で平和について考えようと呼びかける日

このピースディを最初に唱えたのは
イギリス人のジェレミー・ギリーさん

祖父は第二次世界大戦末期に福岡で捕虜になり
その後長崎から船で帰国
長崎での被爆が疑われ、数年後血液の病気で死亡

ギリーさんに平和が大事だと話した祖父
決して憎しみを口にすることはなかったという

その経験がジェレミーさんが平和について考えるきっかけに
自分の身の回りの人に優しいことばをかけよう
自分の周囲に平和を作っていこう
そう語りかけるジェレミーさん


21日という日を選んだのは
祖父の部隊で帰還できたのが21人だったから

一人の想いが少しずつ世界に広がっている
9月21日、私たちも周りの人たちに想いをはせ
世界の平和を考えていきたい

2018年9月14日金曜日

笑わぬ知事

8月に亡くなった沖縄県の翁長知事。その最後の日々を夫人から取材した記事がありました。

今年の4月に膵臓に腫瘍が見つかった翁長さん。「(任期の)12月まではもたないかもしれない」と夫人に告げたそうです。

6月23日の沖縄全戦没者追悼式で挨拶し、7月27日の会見で名護市辺野古の埋め立て承認を撤回すると表明。「この体調で記者の質問に答えられるだろうか」と不安を口にしたその朝。小さな薬を飲み込むのにも20分かかるような状況だったとか。

記者会見から帰宅すると玄関の椅子に座り込み、寝室に戻るの気力がほとんど残っていなかった翁長さん。そして7月31日に再入院、8月8日に死去。

5年生存率が極端に低い膵臓がん。自分の時間が残り少ないことを知った翁長さんは最後まで力を振り絞って職務を続けられたのでしょう。知事になってからの約4年、夫人は翁長さんの笑顔を見たことがなかったと語っています。「本当は明るくてよく笑う人だった」と。

沖縄のことを「自分事」として考えていますか?そんな問いを目にしたことがあります。私たち全てにとって重いことばだと思います。命をかけて信念を貫いた翁長さんのことばを改めてこころに留めるべきでは、と思います。たとえ、立場が違っていても、考え方が違っていても・・・

2018年9月11日火曜日

二つのありがとう

大坂なおみ選手の快挙ですね
9日は早朝からの試合観戦で眠い人も多かったのでは?


大阪選手が言った二つのありがとう

「試合を観戦に来てくれてありがとう」と観客に

「決勝で対戦する夢がかなった
プレーしてくれてありがとう」と
対戦相手のセリーナ・ウィリアムズに

幼い時からの憧れだったセリーナと
「4大大会の決勝で戦うことを夢見てきた」
その夢が叶った大坂選手の素直なことば

ブーイングに包まれる異様な雰囲気の表彰式
彼女が口にした「ありがとう」が心地よく響きました

20才の若者の今後に夢が広がります

2018年8月30日木曜日

写真家のブログ

新聞の「ひと」の欄で知りました

2017年11月に背骨に腫瘍がみつかる
進行した血液のがん、多発性骨髄腫
35歳


自身の病気のこと、家族のこと、死のこと、緩和ケアのこと
ブログを少しずつ遡って読んでいます

自分や家族の「死」をもっと話せる社会になってほしい
そう願う幡野さん

今を生きるために大切なこと
私たち一人一人が心すべきこと

静かに読んでいます

2018年8月27日月曜日

エジソンのお母さん


短いビデオクリップ エジソンのエピソード

ある日小学校から帰ってきたエジソン
先生からもらった手紙を母親に渡します
「先生が、お母さんに読んでもらって、って」

母親が彼に読み聞かせたのは

「息子さんは天才です
この学校はとても小さく
彼を十分に教育できる教師がいません
自宅で教育をしてください」

母親の死後
エジソンはその手紙を遺品の中にみつけます

そこに書かれてあったことばは

「息子さんは知的障害児です
これ以上学校に来ていただくことはできません
退学していただきます」

エジソンは日記に記しました
「トーマスエジソンは知的障害児だった
しかし母親が世紀の天才に育て上げた」


子どもを育てるということ
前向きな言葉を使うこと
そして、信じること

親としての原点を改めて示してくれた
エジソンのお母さんです

2018年6月30日土曜日

専門医からのメッセージ

長谷川式認知症スケールを40年以上前に考案した老齢医学の専門医長谷川和夫医師。ご本人が認知症と診断されました。ご自身の認知能力の変化を伝えることで、認知症に対する考え方を変えていきたいと思っていらっしゃるとか。

過去のことを忘れてしまい、現在とのつながりがわからなくなる不安感を抱いているのが認知症の人。

そんな人たちに接するための長谷川医師からの五つのアドバイス。
1)認知症の人と目線を同じにする
2)笑いを忘れずに、微笑みももって接する
3)認知症の人の生活はシンプルに
4)認知症の人に役割を持ってもらう
5)一人一人、かけがえのない存在として認め合う

日常の介護ではなかなかできないこともありますが、このようなアドバイスを知っていることは大切です。笑えないと思っても笑顔を無理にでも作る、そんな心がけで状況が変わってくることも・・・

ラジオの放送ではご本人の声のメッセージもありました。

「私は長谷川和夫といいます。私も認知症と診断されました。大丈夫です。明るい気持ちで、笑いを忘れないでください。自分と家族、知人を大切に、自分の生きていく道を歩んで行ってください」


2018年6月21日木曜日

形の美

NHKの日曜美術館で目にした柚木沙弥郎(ゆのきさみろう)さん。本年96歳、現役の染色作家。

日常生活で普段目にする物にも「形の美」を見つけて楽しんでいらっしゃる様子。大学で教鞭をとっていた頃は気むずかしい先生だったという方が、日々の生活の全てが「うれしくてしかたがないの」とおっしゃる日常生活が映し出されていました。

長年、染めの作品を二人三脚で制作してきた方が驚くほどの大きな新作のアイディア。染め上がった作品の黒い模様は躍動感に満ちています。

展覧会に展示された布の数々は存在感を示しながらも穏やかに揺れています。年月を重ねた作者のたどり着いた心境は、全てを包み込み暖かさにあふれています。

このところお元気な90歳を超えた方々との時間を過ごせたラッキーな私。テレビを通しての偶然の出会いにも改めて感謝でした。

2018年5月7日月曜日

イチローそして大谷


MLB公式ツイッターで公開された

「ありがとうイチロー」動画

大谷選手との対戦はなくなったけれど
二人が笑い合っている写真を
Passing of the torch.
聖火リレー
と表現したMLB


時代は動いている
次につながっていく
語り継がれるイチローの偉業を残して

大谷選手は何を残してくれるのかしら


2018年4月18日水曜日

29年

29年、ほぼ30年の年月
自分の29年前は何をしていたかしら

29年が獄中で過ごした時間だったとしたら・・


布川事件の容疑者として逮捕された桜井昌司さん
当時20歳、無期懲役の刑に
49歳で仮釈放
再審無罪となったのは64歳のとき
その後冤罪(えんざい)を訴える人たちを支える側に

明るく冤罪仲間と交流し
自分に与えられた天命として
冤罪を訴える人たちを支援

「29年の獄中生活も含めて
人生無駄なことは何もない」

こう言い切る71歳の桜井さん
29年の時間の長さを改めて思います


2018年4月8日日曜日

王様鍵盤

ピアノを習っていた時、新しい曲を先生からもらうと、まずチェックするのは、楽譜にあるシャープとフラットの数でした。黒鍵をたくさん弾くのは大変だ、そう思っていたのは私だけではないはずです。

黒鍵と白鍵が全く同じ大きさのピアノを開発しているピアニストがいらっしゃるのを知りました。平らな鍵盤のピアノを30年前から試行錯誤して制作しているいる菅野(すがの)邦彦さん。

黒鍵と白鍵のスイートスポットが同じになり、音質が均一。キーが変わっても指の運びは同じ(指の練習曲集、ハノンで苦労した身には夢みたい・・・)。そんなピアノの理想の形を求めて今まで4台を試作。最後の完成品「王様鍵盤」の制作まであと一歩。クラウドファンディングを実施中。

ピアノとはこういう楽器である、と全ての人が疑うこともなかった中で、ユニークな発想でいい音を求め続ける菅野さん。繊細なピアニッシモを生み出すため、究極のピアノを作りたいという強い希望が彼の活動を支えているようです。

2018年2月28日水曜日

"I SHALL NOT HATE"

"I SHALL NOT HATE" 日本語のタイトルは「それでも、私は憎まない」。著者のイゼルディン・アブェライシュ氏はパレスチナ難民としてガザに生まれ育ち、猛勉強と努力の結果、イスラエルで初めてのパレスチナ人医師になった人。イスラエルの病院でパレスチナ人とイスラエル人の両方を治療していた、そのアブェライシュ氏のガザの自宅が、2009年1月イスラエル軍によって爆撃され、三人の娘と姪一人がなくなる。

爆撃の直後、イスラエルの友人たちに助けを求めたアブェライシュ氏が語ったことば、「私の娘たちが最後の犠牲者でありますように。ガザで我が子を失った父親として、今回の流血の即時停止を呼びかけたい」はイスラエル全土に流され、その二日後にイスラエルとパレスチナの停戦協定が結ばれたのでした。

私がアブェライシュ氏のことを知ったのは、2014年3月の新聞記事。「それでも、私は憎まない」の日本語訳が出版された折に日本訪問が実現したというものでした。すぐにその本を買って読んだ私。ブログにも掲載していた・・・と思って検索してみると、彼の名前が出てきません。本を読んだ当時には書けなかったのです、きっと。

アブェライシュ氏に「再会」したのは、手元に届く雑誌の2月号。肩書きは「医師・トロント大学准教授」。「残された5人の子どもたちとカナダに住み、娘たちの追悼募金で中東の少女たちの教育を支援している」と2014年の新聞記事にもありました。

今回の記事にあった「憎しみ」hateと「怒り」angerとの違い。とても納得できるもの。長くなりますが引用します。

憎しみは毒です。その毒は身体のなかを巡り、そしてまた暴力を生みます。憎しみの連鎖は、世界を破壊します。ですから憎しみにとらわれてはいけません。憎しみにかられると、視野が狭まり、何も考えられなくなるのです。

怒りと憎しみは違います。この世の中で起きている不条理に対して怒ることはとても大事なこと。前向きな行動を起こす、その源となるのが怒りです。憎しみは自己を崩壊させる病気です。誰しも健康に生きたいはずですから、みなさんはそういう憎しみには決して近づかないでください。

もう一度本を読んでみようと思います。新たな気づきがきっとあることと思います。


2018年2月20日火曜日

「生きていくあなたへ」


手元に届いた日
寝る前に読み出しました

なぜか夜中に目が覚めて
残りを読み切ってしまいました

日野原先生のご本を読みあさった時期がありました
講演会も度々出かけました
一時は「おっかけ」の気分でした

先生の最後のメッセージ
読み終わった時、涙がにじみました
この世での貴重な出会いに改めて感謝でした



2018年2月7日水曜日

6年間の拘束

NHKの「こころの時代」。ミャンマーの軍事政権下で6年の獄中生活を送った女性マ・ティーダさんのお話、「独房で見つめた自由」

家族や友人だけでなく、ふれあう全ての人のことを毎日祈り続けていたという母親。人種にこだわることなく、市民として、いかに生きていくべきかを説いた父親。仏教徒として、宗教が生活に溶け込んだ家庭で育まれた幼い日。

民主化運動の中で逮捕され、独房で完全に自由を奪われた時間を過ごした20代後半。その中で、自分が自分自身であることは誰にも奪われないことを悟り、一日の大半を瞑想して自分を見つめ続けて過ごしたという。

彼女のその姿を見た看守が「あなたは私よりも自由だ」と言ったとか。

「あの拘束の時間が私を育てた」と語るマさん。想像を絶する環境で自分を持ち続けた人の語り口はとても穏やか。

現在のミャンマーの人々が自由の本当の意味を知ってほしい、と願い、正しい情報を提供する雑誌の出版をしたり、本業の医師として、差別されたイスラム教の人たちへの無料の病院でボランティアを続けている。

本当の民主主義国家になるためには市民一人一人が自分の未来を決める権限を持っていることを自覚しなければいけない、と話す。それは仏陀が伝えたかったことでもある、と。

6年間見つめ続けた自分が今、何をなすべきか。周りの声に惑わされることなく、芯の通った彼女の生き様を示してくれた一時間の番組。


2018年1月8日月曜日

星野仙一さん

一人の人が亡くなって、こんなに新聞で大きく取り上げるのですね。星野仙一さんの記事、紙面のあちこちにいっぱいでています。どれだけ惜しまれて亡くなったのかがわかります。

多くの人のコメントを読んでいて、星野さんの監督としての大胆さとその裏に秘められた心遣いを感じます。熱血監督として怒りの感情を大きく表す人は、選手の成功を心から喜び、一緒に涙する人だったようです。

選手の家族、球団の職員、全ての関係者に心を寄せていただけでなく、取材する記者たちとも一緒に食事をしていた、とありました。自分にしっかり対峙してくれる星野さんに、心から信頼と尊敬の念を抱いていたはずです。

上から見下ろすことなく、いつも同じ目線で会話ができる。大胆さと細やかさを併せ持っている。人は亡くなったあとにその人の評価が決まるのですね。「熱血でありつつ、独善に陥らない」天声人語にあった言葉です。

2017年11月20日月曜日

モンベル

日本のアウトドア総合メーカーのモンベル。創業者で社長の辰野勇さんとほぼ日の糸井重里さんによるほぼ日 対談。お二人ともユニークな会社経営者です。

もう10年前になるのですが、同志社大学のオフキャンパスプログラムで辰野さんのお話を直接伺ったことがあります。京町家の教室での気楽な講座。お得意の篠笛を披露してくださいました。

若い頃から山に魅せられて21歳の時にアイガー北壁の登頂を果たした辰野さん。多くの山での貴重な経験をあっさりと(さっぱりと)何気なく話していらっしゃるのですが、その内容はとても貴重な(重い)ものでした。

会社の社長としての辰野さんの目指すものが、今回、この対談を読んで、よくわかりました。

モンベルが30近い地方自治体と結んでいる包括連携協定「七つのミッション」

1)自然環境保全意識を高める
2)こどもたちの生きる力を育てる(野外教育)
3)人々の意見校増進(自然体験を通じて)
4)防災意識向上・災害時の対応力向上
5)地域経済の活性(エコツーリズムを通じて)
6)農林水産業のサポート
7)障がい者・高齢者のためのバリアフリー

会社そのものが地域の財産となる、それを実現しているモンベル。穏やかな辰野さんのお話ぶりを思い出しています。



2017年10月19日木曜日

キリキリ、ズキズキ

中国で漢方の医師として活躍していた女性
日本で西洋医学を学ぼうと京都大学に留学
年齢は40歳を超えた留学生

慣れない日本での生活、日本語習得の大変さ
彼女の踏ん張りはことばでは言い表せないもの

無事に博士号を取得
病院での研修医としての仕事もスタート


久しぶりにおしゃべりした彼女
「日本語の痛みの表現、とても難しい・・・」と

患者さんが痛みを訴えるのに必ず出てくるのがオノマトペ
キリキリ、ズキズキ、ガンガン
ヒリヒリ、チクチク、ピリピリ

日本人にとって、どのような痛みであるか
音を聞いただけで理解できることば
日本語を母語としない人にとっては難敵そのもの

あれからもう20年、ベテランの医師となった彼女
ズキズキした痛みとチクチクした痛みも
ちゃんと理解できるお医者さまになっているはず

あれだけの努力ができた人ですもの