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2018年8月30日木曜日

写真家のブログ

新聞の「ひと」の欄で知りました

2017年11月に背骨に腫瘍がみつかる
進行した血液のがん、多発性骨髄腫
35歳


自身の病気のこと、家族のこと、死のこと、緩和ケアのこと
ブログを少しずつ遡って読んでいます

自分や家族の「死」をもっと話せる社会になってほしい
そう願う幡野さん

今を生きるために大切なこと
私たち一人一人が心すべきこと

静かに読んでいます

2018年8月21日火曜日

自閉症

友人のFB投稿で見つけた記事

自閉症に対しての新しい考え方

人間が作り出す社会そのものより
自然に関心が高い自閉症の人たち

社会への適応能力のなさを障害ではなく
人の多様性の一つとして捉えよう、と


自閉症の人は色彩や音楽にも鋭い感覚を持ち
ケバケバしい色を見ると落ち着かないのだとか

京都市内の色彩規制で落ち着いた色を使った
全国チェーンの牛丼やさんが記事に登場

マクドナルドの赤も落ち着いた色となる京都市
日本らしい環境を保全するための規制が
自閉症の人にとっていい環境である、と

それはもちろん自閉症でない人にとっても
いい環境であることは明らか

京都に住んでいてよかった!

2018年8月10日金曜日

女性医師

ドクターヘリのドキュメンタリーにひっかかってしまいました。2001年にドクターヘリの本格運用を始めた日本医科大学千葉北総病院。休む暇なく働き続ける救命救急チームの医師たちを追いかけていました。

派遣要請で出動し、着陸した場所に、当初連絡のあった患者だけでなく、もう一人が運ばれてくる。二人を連れて帰ることはできない。どちらの患者を運ぶのか・・・究極の選択を迫られる医師。

高齢の女性の救急処置をしようとしたら、家族からの連絡があり「延命治療は本人も家族も望んでいない」と伝えられた医師。命を助ける現場でも、患者や家族の意志の尊重はしなければならない、でもまだ助かる可能性はある・・・

救急で運ばれ、手当の甲斐なく亡くなった人。連絡した家族が20分後に到着予定と聞き、死亡宣告を伝えるために、静かに家族を待つ医師。

番組後半は神戸市立医療センター中央市民病院の救命救急医が登場。現場の半数は女性医師。救急部長の男性医師は「救急の現場では絶対女性医師の方が冷静です。男性医師にない落ち着きや心配りがあるのです」と。

30代半ばの女性医師はチームをまとめ上げ、若い医師にアドバイスを与えながら、テキパキと処置をこなしていく。救急患者を全て受け入れる方針のこの病院には、他の病院が嫌がる自殺未遂の人も多く運ばれる。同じ人が2度運ばれてきたのを知った医師。「救急医療で命を助けるだけでは、本当に患者の役にたったとは言えない」と、もどかしさを口にする。

命と向き合う医師たちの厳しい職場。私たちの命が多くの人たちの努力によって支えられている、改めて背筋を正して画面を見つめていました。

PS: 女子受験者の点数を一括減点していた日本医科大学。大学当局者は男性ばかりだったのでは・・・そんな勘ぐりをする私。

2018年6月28日木曜日

アフリメディコ

昔の日本の家庭にあった「富山の置き薬」。それをアフリカで実戦しようとしているのがアフリメディコというグループ。

タンザニアでの活動を紹介したラジオ情報。アフリカにおいて比較的治安が安定していると言われる現在のタンザニア。日本の戦後の状況に似通っているのだそうです。

インフラがまだ十分に整備されていない。大家族で生活している。健康保険などのシステムができていない。

頭痛薬・胃薬・傷薬・包帯に加えて、マラリアの検査キットが常備され、病院に行く前段階での判断ができるのだそうです。2016年5月のスタート時、たった5軒だった参加家族が今は100軒に増えているとか。お薬の配布だけでなく、医療知識の啓蒙にも努めているのがアフリメディコの活動。日本の昔の知恵が遠いアフリカでお役に立っているのはすてきです。

体調が悪くなれば医療機関にかかるのが当たり前になっている現代の日本の生活。自分の体のことなのに、自分で判断することをせず、誰かに「お任せ」してしまっているような時代。Self Medicationということばをもう一度考えてみる必要がありそうです。氾濫するネット上の情報に翻弄されることなく・・・

2017年12月4日月曜日

20年来の夢

iPS細胞発見でノーベル賞を受賞した山中教授が、初めて論文を発表してから10年になったそうです。臨床への応用研究が世界中で行われている現実。難病と言われる病気の治療法が発見されるのも夢ではなくなるはず。

車いすフェンシングの活動関わって20年となる私。自分でも不思議なのですが、当初から、私の知っている車いすフェンサーたちが将来「立ち上がる」、そんなイメージをずっと持ち続けているのです。理由は全くわかりません。もちろんiPS細胞のことなど、全然知らなかった頃からです。

想像を超えた技術の登場が続く現代社会。私たちの身体を日常的にモニターしたり、体内に微細な回路を埋め込むことも問題なくできるようになっています。グーグルが静脈の中にマイクロカプセルを流し込み、健常な人の機能を補強したり、将来は身体に障害を持つ人の機能回復にも役立てることができるようになると発表したのだそうです。

20年前とは全く違う世の中になっているような様相。私の20年前からの「予感」が当たってくれることを切に願っています。

2017年6月30日金曜日

小児歯科

シカゴでの生活がスタートした頃、歯医者さんに行くことになった5歳の娘。なぜか怖がって泣いてしまって治療になりませんでした。そこで紹介されたのが小児専門の歯医者さん。

診察台は大人のものより小ぶりだったような気はするのですが、特に小児歯科だから、という雰囲気は感じられなかった歯医者さん。

頑固なまでに泣いて口を開かなかった娘が、とても素直になっているのです。アメリカに行ってからそれほど時間がたっていない頃ですから、英語を十分に理解していたとは思えません。

治療後「どうだった?」と聞いたら「別に・・・」って。小児歯科医のマジックなのでしょうか。その後も治療は順調に進みました。

新聞の投書に、歯医者さんの診察台でスヤスヤと眠ってしまった孫のことを書いたものがありました。

「安心」すればこそ。小児歯科のマジックはそこにあるのですね。「大人」の患者にとっても同じですが・・・

2017年6月25日日曜日

慎重投薬

ラジオで「しんちょうとうやく」という言葉を耳にしました。内容からすると「慎重投薬」の漢字を当てればいいのだと思います。

国民皆保険のおかげで、病院で出されるお薬の費用負担が少なくてすむ私たち。薬をもらうのが当たり前になってしまった私たち。薬をもらわないと何だか物足りなくなった私たち。


多くの薬を合わせて服用することでの弊害が言われることは多いけれど、なかなか改善されない現実。「大病院でビニール袋一杯の薬をもらって帰る高齢者を見ると、大丈夫かな、と思います」とコメンテーター。「医者にとって他の診療科目の薬に目配りする余裕はなく、他の医者への遠慮もある」のが現実とか。

多くの薬を同時に服用することで体調不良になることもあるとしたら、一体何のための投薬なのでしょうか。慎重に・慎重に・・・先生方、お願いします。そして薬剤師さんたちもよろしくお願いします。

2017年5月12日金曜日

平穏死その後

2011年9月29日のブログで書いた平穏死。それを提唱していらした石飛医師の記事を目にしました。

超高齢者が増加する現代。老衰をそのまま受け止めることが下手な現代。でも数年前に比べて胃瘻(いろう)で栄養補給を受ける高齢者の数は激減したとあります。保険の点数が下がったことが大きいのだそうです。

平穏に、そして自然に死を迎えられるのは人間としての本当の意味での幸せかもしれません。もちろん見守ってくれる人がいることが絶対条件ではありますが・・・

無駄な医療を受けないという感覚が人々の間に少しずつは広がってきたのは時代がいい方向に動いてきたということ。これからの多死時代に、より自然な形の旅立ちができる体制やサポートが今後も整っていることを願うばかりです。


2017年5月6日土曜日

若年性認知症

65歳以下で認知症を発症する人、若年性認知症
働き盛りで診断される人も増えている現実


39歳でアルツハイマー型認知症と診断された男性
不安で夜も寝られない日々
勇気を出して周りの人たちに告白

「大丈夫、お前が忘れても俺たちが覚えている」

こんな言葉が自然に出てくる人と人との繋がり
新聞でこの言葉を目にして、とっても嬉しかった私



2016年10月20日木曜日

EPAのこと

2008年に経済連携協定(EPA)による看護師・介護福祉士候補者、約200人が初めてインドネシアから日本にやってきて、今年で8年。数々の難関を突破して日本の看護師や介護福祉士の資格を取った人たち。でも試験に合格すると国からの支援がなくなり、日本人と同等の仕事を求められる過酷な環境に耐えかねて帰国する人が増加しているのだそうです。

現在までに4000人近くが来日し600人以上が国家試験に合格。その合格者の3割が帰国してしまっているという数字。このシステムがスタートした頃に母を介護していた私にとって、彼ら、彼女たちの「その後」はとても気になっていました。ブログでも何度か「同じこと」を書いています。

せっかくの制度を十分に活用できていない。応募者の人たちにとっても、日本にとっても・・・なんともったいないこと。長期の、しっかりした政策で支えてほしいのに。なんとかならないのでしょうか。


2013年3月
2011年6月

2016年9月6日火曜日

痛む時には

「痛む時には左手をあげてくださいね」
私の通う歯医者さんが治療前におっしゃることば
痛みににぶい(?)私は今まで手を挙げたことはありませんが

同じことばを歯医者さんに言われた男性
何度か左手を上げたのに
「もうすぐですからがまんしてください」と
痛みの訴えは却下されるばかりだった・・・との投書


私の歯医者さんはご近所さん
引っ越していらした直後に町内会の当番に
その折の対応がとてもすてきなだったのです
2年前から通っていますが
丁寧な説明、治療に満足している私です

左手をあげる必要もなく・・・

2016年8月31日水曜日

講演会「生きるということ」 #3

細谷亮太先生の講演の最後に会場からの質問がいくつかありました。「私の娘は20歳後半です。寝たきりで、知的な遅れもあり、本人との会話はできません。先ほどのDVDのお嬢さんのように、本人が何を考えているのかどうか、わかりません。答えをいただける質問ではないのはわかっていますが、自分がどうすべきか、日々思い悩んでいます」

細谷先生のコメント:
「僕の話が答えになるとは思いません。生きることに正解はないと思います。与えられた命を十分に使いきること、それだけだと思います。

お嬢さんとの生活の中で、どんな小さなことでもいいですから、キラッと光る時間を作ってほしいのです。人と人がふれあうこと、そこから生きるためのエネルギーが生まれてきます。お母さんにとっても、それが一番大事です」

「現在70歳となった僕は平均寿命のもう85%を生きたことになります。長年、幼くして亡くなってしまう子どもたちを見てきた僕にとって、もう、これはすごいことなんです。いつお迎えの車がやってきたとしても、それに素直に乗っていこうと思っています」

現在の医療が抱える、延命治療の質問に対して細谷先生がおっしゃったことば。最期の時の過ごし方も含めて、自分の生き方は自分で決めること。その大切さへのアドバイスでした。

京都から片道2時間近くかけて出かけた講演会。脚の痛みがなくなったからこそ、しっかり歩いていけました。小さな新聞記事に感謝です。


2016年8月30日火曜日

講演会「生きるということ」 #2

細谷亮太先生の講演会で見た二つ目のDVD、18歳で亡くなった女の子のお話でした。

生まれつき心臓に欠陥があり、8歳の時、ドイツで心臓移植を受けました。その後、体型が変化して呼吸がしにくくなり、人工呼吸器の装着をしたのが15歳の時。声を出すことはできなくなりました。

自宅で、ご両親との生活を望んだこの女の子は、筆談や携帯での文章入力でコミュニケーションを続けます。徐々に体全体の機能低下が進み、腎臓がうまく働かなくなりました。透析をしなければならない状況です。でも、そこで彼女は透析を受けないという選択をします。「命は長さじゃないよ、どう生きるかだよ」と主治医の先生や両親に伝えます。

日に日にむくみがひどくなる娘を見て、こころが揺れる父親は主治医に相談します。「何としても治療をうけさせて、一日でも長く生かせてやりたい」と。改めて本人の気持ちを聞く、ご両親と主治医。そこでも彼女の決意は変わりません。「私が決めたのだから、どんなことになってもちゃんとするから・・・」と。

そして、彼女は最期は眠るように旅立ちました。両親や周りの全ての人に感謝のことばを記した手紙を残して。

「両親との楽しい時間がいっぱいできました」「大好きな海のにおい、そしてやさしい人たちのいいにおいを私は忘れません」


2016年8月29日月曜日

講演会「生きるということ」 #1

新聞で偶然目にした講演会。タイトルは「生きるということ〜今、私たちにできること」講師は聖路加国際病院で長年小児科の先生をしていらした細谷亮太医師。小児がんの専門家。大阪YMCA会館まで出かけました。

先生ご自身の幼少期のお話からお話はスタート。子どもがあちこちに一杯いた、戦後の秩序が少しずつ整っていく中での先生の生い立ちです。そこから現代の子どもを取り巻く事情へと話が進んでいきます。

そして、NHKが取材した聖路加病院の小児科病棟のDVDを紹介されました。6歳の2人の男の子が同じ部屋で仲良く過ごしています。一人は骨折の治療のため、もう一人は悪性の小児がん、少しずつ症状が進んでいきます。

「これ以上の治療はやめて、本人が一番やりたいことをさせてあげる時期になったようです」と話かける先生に、ご両親は「本人にとって、友達や先生、スタッフと過ごす病院の時間が一番幸せなのです。病院の場にいさせてやってください」と答えます。

がんの転移が広がって、目が見にくくなったこの男の子に、同室の子は彼なりのこころくばりを続けます。一緒に絵本を読んでもらう時には、ことばで、どんな絵本が手元にあるのかを伝え、どの絵本を読んでもらおうか、と語りかけます。

「僕は夜中は起きているの。○○ちゃんがゲーッしたら、看護師さんをよばないといけないから」と話す6歳の男の子。彼が外泊した日に「相棒」は亡くなりました。

「○○ちゃんはお星さまになったよ。もう会えないんだよ」とお母さんに話しかけられても、ベッドにうつ伏して返事をしない男の子。病院の中でのお葬式にはどうしても行く、と言い出します。

「二度と会えない、でも○○ちゃんのことはいっぱい覚えているよね」と話しかける細谷先生。自分なりに友だちの死に必死に向き合う6歳の男の子の姿が今も目に焼き付いています。

「私たちおとなは、自分が子どもだったことを忘れないことが一番大切なのではないでしょうか」とおっしゃった細谷先生。普段の生活では見落としている何かを感じることばでした。






2016年8月20日土曜日

終末期医療について

超高齢化社会を迎えている日本。いかに死ぬべきか・・・のような記事が新聞・雑誌、そしてネット上でも目にすることが多くなりました。「死」をタブー視していた頃、20年ぐらい前の社会とは大きく様変わりしているようです。

朝日新聞の記事に回復が見込めなくなった高齢者が「治療」のために入院を続け、その費用が高額になっている現状が書かれています。本人も望まなかった延命治療であっても、救急車で運ばれると、延命処置がほどこされ、それは中止できない、と言われてしまうのです。たとえ、本人が延命治療はいらないと意思表示を前もってしていたとしても。

本人のためにも治療を中止してほしい。高額医療費が使われることは申し訳ない。そう考える家族もいる一方、一日でも延命してほしいという家族も記事の中にでてきます。

借金に追われ、高齢の母親の年金に頼っている夫婦にとって、母親が少しでも長く生きてくれないと、自己破産になってしまうというのです。年金は、高齢者本人だけでなく、収入のない、または不安定な家族にとっても「生きるためのよりどころ」です。今後もこのようなケースが増えてくるのでしょう。

人の生き様、そして死に様、それは一人一人全く違っています。でも個人を支える社会のシステムがどこまで続いていくものか。答えのない問題をみんなで考え続ける必要があるようです。



2016年6月28日火曜日

健康丸投げ

からだの調子がおかしいと感じた時、近くのお医者さんに行く人、ドラッグストアでお薬を買って服用する人、何もしない人。(ほぼ)国民皆保険の日本では、色んな選択が可能です。

2007年に財政破綻した北海道の夕張市。総合病院や救急病院がなくなり、私たちが普段の生活で当たり前だと思っている医療が受けられない状況になりました。その後の10年間の夕張市の事例には住民の医療に関する意識の変化が書かれています。

意識が変わらざるを得なかった事情であったにしても、自分のことを自分で決めなくてはならなくなったのです。体調不良を感じても、まずそれを見極めるのは自分の責任、そう思う人が増えたということでしょうか。

現在の日本は「健康丸投げ」状態だと言われています。お医者さまに診断してもらって「病名」をもらって投薬してもらうことで安心しているのではないでしょうか?高度医療に関しても、それが保険が使えるから、という理由だけで、本来なら必要ないかもしれないことも「お任せ」になってしまう。そんな状況が保険財政を大きく圧迫しています。

財政破綻後10年の夕張市で増加した死亡原因は「老衰」であったという記述は、人間の自然な生き方、老い方を教えているような気がします。

2016年5月17日火曜日

「なぜ、ぼくはがん治療医になったのか」

1996年に出版された「患者よ、がんと闘うな」という本の著者、近藤誠医師の「なぜ、ぼくはがん治療医になったのか」を偶然、図書館で見つけて2日で読破しました。

1998年発刊の単行本の文字がこんなに小さいとは・・・数字が一杯出てくるがん治療の詳細部分は頭がついていきませんでしたが、近藤医師の医学会への反乱とも言える発言がどのようにして生まれてきたのか、深くこころに届くことばに沢山出会いました。

少々長くなりますが、一部を抜粋します。

・がんで死ぬのは自然だが。治療で死ぬのは不条理そのものではないか

・闘う気持ちと闘って合理的な対処法を考えていくべきだ

・がんであっても危険な治療は許されない。治療のために一人も死なないですむ、そういう治療を目指すべきだと考えるようになった

・僕は今、患者さんが退出する間際にかけることばを失っている。でも僕はどんなことがあってもあなたを見捨てない。あながたどこへ行ってどういう療法を受けてもいい。戻ってきたらまた何も言わずに迎えてあげる。内心そういう気持ちで診察室を出て行く人の後ろ姿を見送っている

・辛くても自分で決めること


手術は成功したけれど患者は亡くなった、そんなことが少しでもなくなるように。医療者として、人間としての葛藤を思います。


2016年4月30日土曜日

自然死

私にしては遅い時間、ラジオから聞こえてきたことば
「自然死」
話していらしたのは京都在住の医師中村仁一さん
「大往生したけりゃ医療とかかわるな」という本の作者
現在老人ホームの施設医師の中村さん
「自然死」を見つめるお医者さま

以前、先生の講演も聞いたことのある私
起き上がってメモを取りました


自然死を見たことがない現代人
病院では最後まで治療を続ける
枯れることを邪魔する行為
酸素吸入や点滴は苦しみを与えることに
それは「できるだけのことをした」という家族の自己満足

老衰して寿命を迎えるのは、成長の逆のプロセスをたどる道
本能である食欲がなくなる
自力で食べなくなれば、医療は終了
老人への食事介護はしないという国も世界には存在する

枯れていく老人は死に時(どき)がきたから
食べずに飢餓状態となっていく
βエンドルフィンが出てくるから本人はいい気持ち
脱水、酸欠、炭酸ガスがたまる、
それによってウトウトしている
静かに死への道をたどっていく


中村医師が登場したブログ
2012年6月13日
2012年7月24日
2013年5月20日


2016年4月15日金曜日

名前がなくなるということ

「らい病」と言われていた病気の名前が「ハンセン病」となり、不治の病ではなくなり「らい予防法」が廃止されてから20年もたっているのに、ハンセン病療養所 入所者の38%いまも本名伏せるという記事が伝える現実の厳しさ。

「らい病」と診断されて強制隔離された患者達が本名を隠してつけたのが「園名」。今もその名前で生き続けている方々が多く存在するということ。

もし私たちが今、自分の名前を変えろ、と言われたら。「君は今までの君ではない」と言われたら・・・存在そのものを否定されたら・・・

今までの生活基盤を全て奪われ、隔離された人生を送ってきた高齢の療養所入所者たち。亡くなっても引き取り手のない遺骨が並ぶ療養所の納骨堂。一人一人の命が確かにそこにあったことを伝える写真。


2015年11月30日月曜日

物忘れが辛い

認知症の人にゆっくり話しかけながら、今どんな気持ちを尋ねると、自身で文章が書ける人があるというのを目にして、ちょっと信じられない気持ちでした。母の最晩年を思い出すからです。

母は自分の記憶力の低下を感じるようになり、それが自分で許せなくなって自分からこころを閉じてしまった、と以前から思っていた私でした。とても明晰で、きっちりしていないと落ち着かない母でした(娘は随分違いますが・・・)

認知症を特集するテレビで、「認知症を肯定する」ことがどれだけ認知症の本人を安心させるか、ということを若年性認知症の41歳の男性が話していました。忘れてしまった、できなくなってしまったことを、周りの人が病気による症状として、それを非難することなく肯定する。そこから笑いも生まれる、というのです。認知症の本人は失敗したことはわかるが、なぜ失敗したのかがわからない。そこがとても不安になるのだそうです。ましてや、それを非難されたのでは、いよいよ追いつめられることになるはずです。

認知症が進み出したとき、母は施設でお世話になっていました。週に2、3回会うだけだった私でしたが、母の変わりぶりに戸惑い、今から思えば、決して良い対応をしていませんでした。母のことばを否定していた私でした。「あんなにしっかりしていた人が」という気持ちと「寂しさ」が入り交じっていたのかもしれません。

「病気として認知症を本人も周りも受け入れること」「認知症の人のこころに寄り添うこと」「できなくなったことにとらわれない」

母に対してはうまくできていなかっただけに、私のこころにズシンと響いてきたことばです。「ごめんなさい」の気持ちも・・・