2011年4月30日土曜日

工房訪問












ペンシルバニア、バックス・カウンティ、ニューホープにある日系二世George Nakashima氏の工房。第二次世界大戦中に強制キャンプに収容されたNakashima氏が、以前の雇い主の努力でキャンプから出ることができ、この地で開いた木工家具の工房です。日本の「民芸調」の家具は、一つ一つ木の特徴を生かしたもの。いつも木の声を聞きながら作品を作っていたというNakashima氏の作風が今も生かされているようです。Nakashima氏の作品は、ニューヨークのメトロポリタンを始めとして、多くの美術館に収蔵されています。

Nakashima氏のお嬢さん、Miraさんにお目にかかり、敷地内に広がるギャラリーやゲストハウスを見せていただきました。木立の中に点在する建物。桜やはなみずき、つつじなどに囲まれて、全てが絵になる風景でした。


ジョージ ナカシマ記念館|桜製作所

George Nakashima Woodworker, S.A.

2011年4月29日金曜日

バックス・カウンティ

フィラデルフィアの北に広がるバックス・カウンティBucks County
芸術家も多く住むという自然がたっぷりのところ



若葉には少し早かったのですが、あちこちの木々に花が咲き乱れていました
これは木蓮(もくれん)、日本では見たことがないサイズの木


桜もいろいろ、見事なしだれ桜を発見

木や植物をよく知っている友人とのドライブは
お抱えガイドつきのようなもの
楽しいツアーの時間でした

2011年4月28日木曜日

日本食マーケット

シカゴにある日系スーパーマーケット「みつわ」。日本のものがずらりと並びます。
入り口には東日本大震災の被災者への気持ちを表した大きな「書」がありました。



店内にはフードコートもあって、うどん、ラーメンなどが食べられます。
昼食時にはお弁当も飛ぶように売れるとか。


私が普段使っている炊事用手袋もありました


20年前には手に入りにくかった生の大根もごらんの通り、日本のまま
ボルチモアの韓国スーパーで買った大根はこんなに「自然体」


遠くから車で何時間もかけて買い出しに来るのは日本人だけではないと聞きました。
ボルチモアにも「みつわ」がほしい、息子と娘です。

2011年4月27日水曜日

文庫本


長い旅行に出かける時の必需品が文庫本。今回も本屋さんで目についたものを4,5冊買ってきました。仕事の旅行ではホテル滞在の時間に結構読めるのですが、今回はおしゃべり相手が多いので、やっと一冊が終わりました。

「いきなりはじめる仏教生活」釈徹宗(しゃくてっしゅう)著。文庫本としては厚い350頁の本。最近「仏教的」考え方に興味がある私が、新聞で釈氏の文章をよく読んでいたので、手に取った一冊。「宗教とは何か」というところから始まって、複雑な内容を、軽く、それでいて十分な説明がなされているのでとても読みやすい本でした。

仏教がいかに日本文化に根付き、あまりにも日常的であるために、「宗教」としての意識を持つことなく、私たちが触れていることを改めて思い起こさせてくれました。外国の人、特に一神教の人に日本人の宗教観を説明するのはとても難しいのですが、これから世界が目指していくべき生き方が多く示されているように思いました。

今回の旅で懐かしい友人たちを訪問している私です。たとえ長年会っていなくても、会ったとたんに昔のままに戻れる人たちとの会話の楽しいこと。そして、あれこれ話しているうちに、この本で読んだ自然との共生やあるがままの生き方を、私の友人たちが共有していることを再発見しています。

偶然手にした本ですが、その中に今、私が必要としていることが詰まっていました。もう一度読み直してみよう、そう思っています。

2011年4月26日火曜日

「祈り」


ほぼ日刊イトイ新聞、4月25日の「今日のダーリン」
ほぼ日刊イトイ新聞

いつも暖かいメッセージのコラムです。

普通の生活の中で、祈りのこころで想いを寄せる、
その大切さを改めて感じさせてくれました。


PS:「ほぼ日」の「今日のダーリン」はその日限りの文章で、アーカイブもないということを確認しました。気に入った文章は自分で記録しておかないといけないようです。残念ながら、4月25日の文章は手元にありません。

正式な「祈り方」は知らないけれど、でも祈っていたい、という糸井氏のコメントがとてもすてきでした。大震災後、何もできないと思う私たちですが、「祈り」だけは、いつでも、どんな形でもできますね。「祈り」とは「思いをはせる」行為だと信じている私です。

電車の旅

アメリカ東部、ワシントンからボストンまではアムトラックの電車で比較的簡単に移動できる珍しいところ。シカゴに住んでいた私にとって、初めての電車の旅はボルチモアからフィラデルフィアまで。たった1時間と少しなのに、料金が80ドルなのにはびっくり。

インターネットでチケットを購入
予約番号を入れて発券するのは、Southwest Airlinesと同じ
ボルチモアの駅はバス乗り場ぐらいの大きさ



出発予定時刻は午後2時47分
駅についたら、3時6分への変更表示
それから何と8回も表示が変わり
(暇だからずっとボードをチェックしていた私)
プラットフォームに降りたのは3時20分すぎ
やっと電車に乗り込めたのは3時25分




指定席ではないから、空いた席を探してウロウロ
イースター前の金曜日で電車はほぼ満席
通路側に一つ空席を見つけて滑り込む

新幹線よりゆったりした荷物置き場
切符の検札は半券を「網棚」のところにはさんで終了
窓際の人の切符がはさんであったので、私は検札なし
これじゃ、切符なしでも乗れたかな・・・・



出発が50分近く遅れたのに、出発して10分ぐらいすると突然停車
10分近く止まっているうちに、電車が2台追い越していく・・・???
しばらくすると車掌さんの説明
「1時間近く遅れていて、もうしわけないけれど、
後続の電車が遅れないように停車して待ちました」とのこと
確かに私の電車は「安い」電車、つまり特急ではないけれど
追い越した電車は「対向車線」を走ったはず
本数が少ないからできること
日本では考えられないできごと

それから、私の電車は車体を大きく振りながら全速走行
大丈夫かしら・・・と思うほど

到着したフィラデルフィア駅は大きくて立派
やっと会えました、私の大好きな「大きな」友達に!
でっかいハグをしてもらいました!!


2011年4月25日月曜日

初めまして

僕、Jackです
Chuckと呼ばれても、ちゃんと返事はします
Chuckの1.5倍の大きさだそうです
ミズーリで生まれてシカゴにも住んでいました
今はボルチモアにいます



僕の同居人、Leoです
とっても人見知りです
僕は「犬みたいに人なつっこい猫」なんだそうです


幼なじみのSitaです
ミズーリ生まれ、一緒に育ちました
小さい頃は二人で(?)とっくみあいをしてました

2011年4月24日日曜日

セキュリティーチェック

2001年の9.11以降、アメリカの空港でのセキュリティーチェックはいっそう厳しくなりました。今回アメリカのセキュリティーチェックを何回も通過する私からの「通過報告」です。

液体は3オンス以上は持ち込めません。化粧水などはフリーザーバッグに入れてかばんから出しておきます。もちろんペットボトル飲料はペケです。

ベルトや金属で、センサーが反応することがありますから、チェックを受ける前には全てからだからはずしてプラスチックのケースの中に入れます。

ラップトップは単体で、プラスチックケースへ。上着はもちろん、くつも脱いでチェックを受けます。携帯電話は別にしておくのかと思っていた私ですが、かばんの中に入っていても大丈夫だそうです。

荷物をX線チェックのコンベアに押し込んだら、センサーのゲートを通ります。今回、関空では大丈夫だったブレスレットがシアトルのチェックでは音がしました。ひっかかりそうなものは前もってはずしておく、これが鉄則です。

シカゴに出かける朝、一緒にチェックポイントを通った息子が別の検査を受けていました。ランダムチェック、無作為に選んだ人の手のひらをセンサーでチェックします。爆発物を触っていると反応するセンサーだそうです。今回初めて知りました。

シカゴから戻る時、「このカバンだれですか?」と検査官。私のカバンでした。「開けますよ」と私の目の前でチェックが始まりました。シカゴの日本食料品店で買った、ごま風味のサラダドレッシングが二本。30オンス以上でしたから、没収です。「おいいしいドレッシングなんですよ」って言ったら、ちょっと申し訳なさそうな顔の女性の係官。息子いわく、「当たり前じゃん!」

友人宅で食べたごまあえがとってもおいしかったので、息子と娘、それぞれに一本ずつ買ったのに・・・チェックインの荷物があれば、そこに入れてセーフなのですが、スタンバイの私は手荷物のみで動いていますから、それはできず・・・せっかく買ったのに・・・

これからは、気をつけます、はい。

2011年4月23日土曜日

「てんでんこ」報告

3月25日に書いたけやき便り: 津波てんでんこのその後の「報告」がMLで回ってきました。

研究成果 広域首都圏防災研究センター: 長年釜石の子どもたちに防災教育をしてきた群馬大学の片田教授の研究室のレポートです。今までの取り組みと3月11日に子どもたちがどう行動したか、詳しくかかれています。

小さい子どもたちを助けながら避難した中学生たち。避難所でも率先して掃除をしたり、安否札を壊れた家々に貼っていたり、大人顔負けの働きをしていたようです。

子どもたちへの徹底した教育が地域を巻き込み、自分たち自身で行動できるまでになっていました。子どもたちの被害が大きかった今回の大震災。読むだけでも辛くなる記事が多い中、このレポートはひととき、こころをホッとさせてくれるものでした。

2011年4月22日金曜日

本当のスタンバイ

今回のアメリカ旅行で、初めてのスタンバイを経験している私です。14日、日本からのフライトは、デルタもSouthwest Airlinesも「席を押さえられるスタンバイ」だったのですが、今回のボルチモアからシカゴまでの往復では「本当のスタンバイ」を経験しました。

「席を押さえられるスタンバイ」と「本当のスタンバイ」の違いを息子が説明してくれましたが、まだはっきりわかっていない私です。ただ「席を押さえられるスタンバイ」の方が、乗れる確率が高いので、チェックインの荷物がある時は、それでないとややこしくなるのだそうです。

さて、18日、イースターウィークが始まる月曜日、スタンバイには厳しい条件です。空港に送ってくれた息子が、スタンバイの乗り方指南で一緒にゲートまで来てくれました。

まず、空港のチェックインカウンター近くにある「自動発券機」で、予約番号を入れて、Security Document、つまり、セキュリティーチェックポイントを通過できる券を手に入れます。通常は搭乗券を持ってセキュリティチェックを受けるのですが、スタンバイの人にはまだそれがありません。出発2時間前から発券可能です。(20日、シカゴから戻る時、2時間より2分ほど早く発券しようとしたら、ちゃんと2時間前から、という表示が出ました。)

セキュリティーチェックを受けて、出発ゲートに向かいます。そこからはただひたすら待つのです。搭乗カウンターで、「何時頃にボーディングパスが受け取れますか?」と質問をしておきますが、「搭乗が始まってから」という返事が返ってくるだけです。

Southwest Airlinesの場合、到着便からお客が降りて、すぐに搭乗が始まりますが、その時に、名前を呼んでもらえれば、その便に乗れるということです。もし呼ばれなければ・・・「次」の便のゲートに急ぐことに・・・

20日の夜の1228便は到着が1時間近く遅れていました。残り席は二つだと言われていました。「一つでもあれば、いいのだから」とこころの中で思っていた私。ただひたすら待っていました。そして、カウンターのお兄さんが、近くにいた私に目配せして、「乗れるよ・・・」。

ボルチモア到着までの1時間と少し。真ん中の席でずっと寝ていた私。席はどこでも乗れればいいのです、スタンバイは!

2011年4月21日木曜日

「冬」のシカゴへ

18日の月曜日、朝一番にシカゴに飛びました。直行便ではなく、デトロイト経由。ボルチモアは晴れていたのに、デトロイトは雪模様。定刻出発のはずが、氷が機体について、それを落とすのに時間がかかって40分の遅れ。4月の半ば過ぎなのに、真冬のような情景



Southwest Airlinesが使っているのは、シカゴのオヘア空港ではなく、ダウンタウンに近いミッドウェイ空港。初めて行った空港です。そこで、シカゴの友人にピックアップしてもらいました。



10年ぶりのシカゴは冬の気温、シアーズタワーも寒そうでした。ミッドウェイ空港からダウンタウンを通って、北西の方角にあるロンググローブの友人宅へ。お昼の気温が5度。ダウンジャケットやフリース、冬の装束を用意していて正解。春の気配はまだほど遠いシカゴです。


2011年4月20日水曜日

ファーマーズマーケット

ボルチモアのダウンタウン、高速道路の下で毎週日曜日に開かれるファーマーズマーケット
野菜・花・苗・食べ物「屋台」・クラフトなどなどにぎやかに並びます。

マッシュルーム屋さんには見慣れない「きのこ」がいっぱい!


肌寒い朝、あたたかい食べ物を注文中。「キモウ」(と言うような音)には、カレー味のきのこと小さな穀物の煮物。それに緑の葉っぱをまぜて、チーズまでのっかるのです。これで一人前。娘と半分こで十分な量でした。

2011年4月19日火曜日

20年前のコメント



途中でほったらかしてあった本を今回持って旅行に出ました。

長いのですが、引用します。

「情報のきわめて優秀な集積体であるロボットを例にとって言うなら、ロボットの恐るべき精密化、巨大化は、チェルノブイリの原子力発電基地事故に典型的に見られるように、想像を絶する破壊力の解放という結果を生み出す可能性を本質的にもっている点で、明らかに“人間”を超えている。

ロボットとはオートメーションの同義語だと言っていいだろうが、この自動機械がいったん故障し、暴走を始めてしまえば、人間はそこで解き放たれる巨大な破壊エネルギーに対してほとんど無力に等しい。

なぜなら、人間の知性は、精密きわまる機械を作り出すことはできても、それが知性と論理のコントロールを超えて破壊と暴走に突っ走る時には、その惨憺たる結果について正確に予知し、予防する力はないと言っていいからである。

その意味で、たとえばスリーマイル島やチェルノブイリの原発事故が人心に与えた恐怖の経験は、きわめて大きな心理的影響を世界中に及ぼしたはずである。不特定多数の人々、それも国境を越え、政治体制の別を超えて多数の人々が、姿のはっきりしない深い不安を抱き始めている。他の公害問題もまったく同じ性質の不安と苛立ちをかもし出す。」

引用した本が最初に出版されたのは1990年3月。今から20年以上前のことです。作者は詩人で日本語に関しての著作の多い大岡信(まこと)さん。本のタイトルは「ひとの最後の言葉」。

引用の文章は、高度成長が続く情報化社会の中で日本人が見落とした(そして忘れていた)ことが書かれた序章の中にありました。本編は著名な人たちの遺書や辞世の句を紹介して、日本人の死生観を考える内容です。

今回の大震災のあと、そして母を見送って四ヶ月以上たった今、読み切っていなかった本の中で見つけた文章です。「これから」を改めて考えるきっかけになりました。

2011年4月18日月曜日

お見舞いのことば

14日、シアトルからシカゴのフライトで隣に座った女性と少しおしゃべりしました。日本からのフライトの乗り継ぎであることを話したら、大震災のこと、とても気になっていると言ってくれました。短いことばにその方のやさしさが込められていました。

15日、食料品の買い出しに行った時、レジの女性が、「欲しいものちゃんと見つかりましたか?」と声をかけてくれました。アメリカのスーパーではこんな風におしゃべりがスタートすることがよくあります。

日本から来たところで、今日は日本食を作るのだと言ったら、そのレジの女性はすぐさま大地震の話題を口にしました。ご主人の友人が現在日本にいて、なかなか連絡が取れないこと、海軍にいるその友人のことがとても気になると話してくれました。「日本の大震災のことは、毎日ニュースをチェックしていますよ。彼のところは赤ちゃんができたばかりだから、余計に気になるのだけれど・・・」と、知人が日本にいるからこその心配をしていました。アメリカ軍の大きな救援活動に日本のみんなが感謝していると伝えたら、「困った時には助けが必要だもの、お役にたってよかった」と言った彼女です。

アメリカのテレビも大震災の報道は少なくなってきているようですし(もっとも、私はほとんどテレビは見ていませんが)、ほとんどの人にとって日本は遠い国です。ですが、見知らぬ人から「お見舞い」のことばをかけてもらうと本当にうれしくなります。気にかけてもらうことのうれしさなんですね。

2011年4月17日日曜日

マーケットのはしご

雨の土曜日、息子と二人でマーケットのはしごでした
最初は韓国系スーパーマーケット
アメリカの「普通サイズ」のマーケットサイズの売り場には商品があふれています

とうがらしの大袋は5ポンド、約2.2キロ


日本の食品もずらりと並びます

ヤクルト「もどき」もこの通り


次のマーケットは会員制のとてつもなく大きなマーケット
食品だけでなく、電気製品、衣類、薬も扱っています


被災地への支援風景のような水の売り場


フリーザーもこの通り、ミルクとたまごも別室で

レジ風景もちょっと変わっています
重くてかさ高い商品はカートのままレジの左へ
支払う人は右へ

出口でもチェックあり
何をどうやってチェックするのか、ちょっとわかりませんが・・・



私がシカゴに住んでいた1980年代半ばにも大量の商品をまとめ買いするマーケットはありましたが、今回の店の方がずっと大きいものでした。アメリカはまだまだ「大きく」なっていくのでしょうか。消費大国であることは間違いないようです。