ラベル 大震災 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 大震災 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年12月11日火曜日

「津波の霊たち」



3.11の大きな被害の中でもずっと気になっていた
宮城県石巻市大川小学校の惨事

在日20年のイギリス人ジャーナリストによるノンフィクション
6年近い綿密な取材によって書かれた本
子どもを亡くした親たちの心情に
時には苦しくなることも

震災後、各地で見られた心霊現象も取材し
亡くなった人と生き残った人との交流を書き記している

タイトルが「死と生の物語」となっているのは
多くの死からその後につながる生をテーマにしているから

日々私たちの記憶から薄れていく2011年の震災
その後の多くの自然災害も含めて
身近な死を経験した人たちの心情に
時にはこころを馳せていたいもの





2018年1月18日木曜日

PTSD

Post Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害。大きな災害、事故、犯罪の後によく聞かれることば

阪神淡路大震災から23年たった現在でも、PTSDの症状のある人の数は少なくないはず。あれだけの大きな揺れ、そして大きな心や体の傷。単に時間がたったから収まっていくものではないはず。周りの理解と適切なサポートがまだまだ必要。

17日の朝のラジオで、災害の後のサポートは時期によってその形が変わっていく、と聞きました。災害直後の避難所でのサポート、仮設住宅での生活支援、そして復興住宅転居以降の支援。生活が再建できた人であっても、まだまだサポートは必要。そのサポートを必要と感じる人がサポートを受けやすい環境作りがどんな場合でも大切なはず。

小学校5年生の時に第2室戸台風で庭に面した雨戸やガラス戸が吹っ飛んで、危うく屋根が飛びそうになった経験のある私。風の音に耳をふさがなくてもよくなったのはずっとずっとあとのこと。今でも残った雨戸を必死で押さえている光景が蘇ります。過去の経験としてうっすらと映像にもやがかかったようになってきたのは、つい最近のこと。

PTSDとは決して一時的な症状でないこと、それをみんなが理解しておかねば。

2017年5月1日月曜日

なぜ??

新しい復興大臣に選ばれた吉野正芳氏。ご自身が被災者としての体験を踏まえての就任のコメント。

福島県の被災者の一人として「これからは岩手、宮城の地域を実際に歩いて現状を把握したい」との言葉。

なぜ、最初からこのような人を復興大臣に任命できなかったのでしょうか?

順番待ちの政治家を優先するのでなく、本当に必要な人を適切に任命できないのでしょうか?

普通の組織なら、当たり前のことができないのが政治の世界なのでしょうか?

不思議なこと・・・

2017年4月25日火曜日

戻れない

東京電力福島第一発電事故の自主避難者が
故郷に戻れないことを
政府で復興を担当する大臣が
「本人の責任」と発言した事実

「発言を撤回いたします」で解決・・・


避難先では「逃げてきた」と言われ
地元では「逃げ出した」と白い目で見られる

そんな自主避難者のこの6年を
「他人事」として捉えている人が
復興相のトップにいる

何かおかしい・・・

PS:この記事をアップした日の夕方
また復興大臣が・・・

「東北でよかった、もし首都圏だったら・・・」

もうお辞めになればいかがでしょうか!!

PS2:・・・・お辞めになりましたね



2016年4月10日日曜日

外からのかけ声

阪神大震災の時、神戸のあちこちで見かけたことば「がんばろう 神戸」
震災後「がんばれ」と言わないで、という被災者の声が出てきたあとのことば
みんなで一緒にがんばっていこう、という気持ちがあることば・・・のはず

「外からのかけ声への違和感」という文字が3月末の天声人語の中に
「復興、復興と、何だか16ビートで追い立てられ続けているというか・・・」

被災地に暮らす人にとって、復興は一律ではなく、それぞれ個人のもの
一人一人が時間をかけて生活を立て直していこうとする試み
新しい街が、駅ができたからといって、自身の復興が急に歩みを早めるものでなし

震災後5年という時間がそれぞれの立場をいやが応でもはっきりさせる


阪神大震災の時の足湯ボランティア
足の踏み場もないような大きな体育館の情景よりも
大きな体育館にポツンと残されていた被災者の姿が今もあざやかによみがえる

「外」の人ができること、かけ声をかけることではない、それだけは確か

2016年3月12日土曜日

かぜのでんわ


山の上に一台の電話がおいてあります
今日も誰かががやってきました
線のつながっていないその電話で話をするために

岩手県大槌町(おおつちちょう)にある風の電話の絵本
その見開きにある文章

会えなくなった大切な人と話すため
帰らぬ人に想いをつなげるため

震災後5年たった今も
丘の上の電話ボックスにやってくる人たち
こころの重荷を少しでも軽くするために・・・

2016年3月11日金曜日

五年前

5年前の3月11日午後3時過ぎ。偶然スイッチを入れたテレビで見た遡(さかのぼ)る津波。目にしているものが何なのか、何があったのか、わからないままに・・・

でも、今でもはっきり覚えている感覚があります。何にもわからない私のこころにわき上がってきた想い。「日本が変わる!」


でも、この5年、本当に日本は変わったのか、変わっていけるのか、あの時の確信は何だったのかと自問自答する私でした。

震災5年を前にして特集記事が並ぶ新聞の小さなコラムに住民運営型「カーシェアリング」を推進している吉沢武彦さんのことが出ていました。当初、寄付された中古車を仮設住宅に届けて無償で貸し出した活動。被災者同士のつながりを生み出し、それが自治会誕生に至ったこともあったとか。

地域住民がカーシェアの運営を通してお互いに支え合う。少子高齢化が進む日本にとって大切なことを教えてくれています。「被災地でうまれたやり方が、日本を変える」と言い切る吉沢さんのことば、力強いです。

2016年1月22日金曜日

行方不明者

阪神大震災の死者数は6434人。遺体が確認できないまま、行方不明者となっている人の数は3人。

一人暮らしだった母親の暮らしていた木造アパートが全壊、そして火災で消失。焼け跡の徹底的な捜索でも母親の遺骨らしいものは何もでてこなかった。見つけたものは、焦げた腕時計、小銭、茶碗と、自転車だけ。

21年の月日がたってもまだ区切りがつかないという娘さん。母親の死を確かめることができなかった戸惑いがまだ続く日々。

東日本大震災の行方不明者の家族の方々も、悲しみだけでなく、割り切れない想いを持ち続ける日々なのでは。

2016年1月17日日曜日

しあわせ運べるように


この歌ができたのは阪神大震災後2週間たったころ
作者は自宅が全壊した小学校の音楽の先生
臼井真(うすいまこと)さん

避難所となった勤務先の小学校
被災者の臼井さんを気遣ってくれる先生たち
「電話番をしていてください」のことば
自分の無力さに愕然としたという

ある時、詩が湧き出てきて10分で作曲した曲
「しあわせ運べるように」
震災一ヶ月後
再開した小学校の三年生が初めて歌った歌

避難生活を送る被災者も先生もこどもたちも
ただただ涙・涙・涙・・・

自分が無力ではなかった、音楽が人の心に届いた
臼井さんにとって、驚きの経験

その後、神戸中の小学校で歌われる歌になり
信越大地震、東日本大震災の被災地で
10カ国語に歌詞が翻訳されて
各国の自然災害の被災地で
歌われている歌

「歌の神さまがいつも一緒にいる歌」と臼井さん

1月16日の早朝4時のNHKラジオ深夜便
「明日へのことば」で全てのお話を聞きました

睡眠のリズムは狂ってしまったけれど
「あの日」からの時間の流れを改めて思いました
阪神大震災後21年



2016年1月16日土曜日

「日本で最も美しい村」連合


2005年7つの村が集まってスタートした
写真は2013年に北海道を旅行した折に撮影したもの

10年経って現在は全国60の町村・地域が参加
知名度が高くなり、訪問する人が増えてきたとのこと

人口が減り、高齢化が進む地域で
その「美しさ」を保つのは容易ならず
5年毎の参加資格の再審査で
保全活動が充分でない団体は
注意や退会が勧告されることもあるという

2010年9月に連合に加盟した福島県飯舘村
半年もたたないうちに全村避難指示が出た
あの東日本大震災

美しい村であり続けることの大変さ

美瑛町のなだらかな丘の風景がよみがえります


2015年3月24日火曜日

風化だけじゃない

東日本大震災や福島の原発事故に対しての風化が4年後の現在、すでに進行している、その想いで2月11日に「風化」というタイトルのブログをアップしました。

ですが、3月11日以降、いろんな報道の中に、風化しているだけではなく、新しい取り組みがあちこちに始まっていることを知りました。

日本カーシェアリング協会もその一つ。車をなくした被災者の人たちが使える車を提供していこうという試み。提供された車一つずつに提供元と提供先が記載されています。小さな動きが継続していくうちに、より多くの人を巻き込み、地道に被災者の方々に寄り添った活動が続いているようです。

どんなに辛い、大変なことのあとでも、人の善意によって蒔かれた種が少しずつ芽を出していくのですね。忘れないことはもちろん大切ですが、善いこと、嬉しいこと、楽しいことにも目を向けていきたいと思いました。

2015年3月13日金曜日

「奇跡」のことばの陰で

岩手県釜石市。2011年3月25日のブログで取り上げた津波てんでんこ。津波への防災教育を2004年から続けてきた成果で、地震発生当時、市内の小中学生にいた生徒に一人の被害者も出さなかったとして「釜石の奇跡」と呼ばれるようになっていました。

震災後4年目の3月。市内の小学校の事務職員だった女性が亡くなっていた、という記事がありました。残されたご主人は、なぜ奥さんだけが逃げなかったのか、その真相を知りたいと、学校や市との話し合いを繰り返しました。実際に学校関係者の中に被害者がいたのに「釜石の奇跡」と呼ばれることへの違和感も訴えたということです。

「児童の親からの電話に備えて職員室に残ったのかもしれない」というのが、このご主人が得た真相に関する情報だったとのこと。学校の用務員さんにも「避難しなさい」と奥さんが声をかけて逃がしていたという証言も出てきました。

釜石市ではこの「釜石の奇跡」ということばを、奇跡ではなく訓練の成果だったとして「釜石の出来事」と言い換え、内閣府の防災白書の原稿も修正されたのだそうです。

4年前に「てんでんこ」のブログを書いた時、私もただただ「すごい」と感心していたはずです。でもその出来事には、こんな隠れたエピソードがあったのです。

多くの出来事の中には、表面的に現れている、報道などで私たちが目にすることだけではなく、色んな状況があるのを改めて思います。東日本大震災の死者は1万5891人、行方不明者は2584人。数字でひとくくりにすることなく、その家族、関係者の方々、そして多くの被災者の気持ちに想いをはせていたいものです。

2015年3月12日木曜日

東北まぐ

一ヶ月に一回、メールで届いていた東北まぐ被災地の現状、被災地で働く人、被災地の名産品、いろんな情報が送られてきました。

2011年8月からスタートしたこのメールマガジンを読み出したのはいつだったのか、それは忘れてしまいましたが、定期的に送付されるメールマガジンは、私に被災地を忘れないで、と話しかけてくれているようでした。

2015年3月11月号で一区切りをつける、と制作者からのあいさつがありました。

これからも私たちが「忘れない」ための発信を期待しています。写真がとてもきれいなメールマガジンでした。これからの映像発信も楽しみです。

2015年3月11日水曜日

4年目


ラジオで被災地からのお便りを聞いていました
仮設住宅のこと、新しい町づくりのこと
画面はなくても心の中に情景が浮かびます
現地には行けなくても、忘れないでいたいと思います
これからも・・・

2015年2月11日水曜日

風化

2月11日、あと一ヶ月で東日本大震災から丸4年。

脚本家の倉本聰(そう)さんが執筆した、福島の原発事故をテーマとした舞台劇ノクターンー夜想曲。故郷に戻れない福島の人たちのこころを描き出すために、ていねいな取材をくりかえした、とありました。

その倉本聰さんのことば:風化が堂々と進んでいる

「風化」とは本来は自然の営みの中で物が変化する意味ですが、人間のこころを表すと「無関心」が根底にある、寂しい響きのあることばになるように感じます。

「忘れられる」ことの寂しさは、誰しも知っているはず。「忘れない」でいたいものです。




2014年3月11日火曜日

心のケア #2

3月になって、東日本大震災に関する報道が増えました。将来の見通せない仮設住宅での生活が今も続いている現実を目にします。

その一方、復興の業務に携わる方々についての報道はそれほど多くないように思います。自らも被災者であっても、自治体職員として、原発事故処理の担当者として奮闘している方々のことです。

特に原発関係者の心の傷が非常に深刻であるという精神科医の文章を読みました。身内や友人をなくした人も多い。仕事では猛烈なストレスにさらされる。仮設のプレハブで寝泊まりして、暖かい食事もとれず、命がけの仕事をしながら、社会的な批判、逆風を受ける。そんな状況にある原発関係者です。

東京電力の企業としての責任は今後も問われるべきものであっても、事故現場で収束のために働く方々の責任は、東電のそれとは全く違うものです。

このコラムを書いた精神科医はこう続けます。復旧や復興は、それに携わる人々の体と心が健康でなければ立ち行きません。働く人への「敬意」と「ねぎらい」が、心の傷の回復の鍵になると思います。

大変な作業が続く原発事故収束業務、ごくろうさまです。私たちみんながそう思い続けていきたいものです。

2014年3月10日月曜日

心のケア #1

1995年の阪神淡路大震災直後、通訳仲間から連絡がありました。現地で通訳をしてほしいとの依頼に参加できるかどうか、という問い合わせでした。

災害や事件直後に被害者のサポートをするアメリカのチームが被災地で活動する計画があるとのこと。自分がお役に立てるのであれば、と思いましたが、通訳を通したカウンセリングが被害にあった方々にとっていいのかどうか、何となく納得できない気持ちでした。

結局この計画は中止になったようでした。海外からの
「サポートしたい」という気持ちはありがたいとしても、実現は無理と判断されたのでしょう。それでよかったのだと思います。

東日本大震災、原発事故から丸3年を迎えようとする今、心のケアの大切さが改めてあちこちで言われています。とてつもなく大きな生活の変化を経験した方々にとって、3年という月日は全てを解決できる長さではありません。高齢化や病気の理由で、日々の生活そのものがより大変になっている方々も多くいらっしゃるはずです。

この時期、私たちにできることは、まず「忘れないための努力」だと思います。想いを馳(は)せることです。たとえ個人的に被災者の方々の顔や名前を知らなくても、3・11を迎える今、それだけは忘れないでいたいと思います。

2014年3月8日土曜日

災害ヘリ

2011年3月11日、大きな揺れのあとに飛び立った自衛隊の災害ヘリ。レポート係の自衛官が空の上から地上の状況を報告し始めました。NHKスペシャルです。

「まだ大きな被害は見られません」
「あれ、何だ・・川に津波が上がってきています!」
「うわ、大きな波が上がってきています!」
「これは、なんなんだ!!」

現状を冷静にレポートすることが求められる自衛官。あの場面ではどうしても感情を押さえることができませんでした、と語っていました。

あの日、偶然、NHKのテレビで津波が平野を遡(さかのぼ)る生中継を見た私。何が何だか理解できませんでした。あの画面を思い出して、胸が痛くなりました。今年もまた「あの日」が巡ってきます。

2013年6月29日土曜日

風の電話

電話線のつながっていない電話ボックス「風の電話」のことをラジオで聞いたのは、つい先日でした。検索してみると、朝日新聞2011年5月12日の記事にこの「電話ボックス」のことがありました。 http://www.asahi.com/special/10005/TKY201105120083.html

この電話ボックスは、岩手県大槌町(おおつちちょう)の海を望む高台にある佐々木格(いたる)さんの庭に以前から設置されていたもの。震災後、佐々木さんは、自分の庭をメモリアルガーデンとして整備し、被災者やボランティアたちに解放しています。

電話ボックスにある佐々木さんのことば・・・

「風の電話は心で話します 静かに目を閉じ 耳を澄ましてください 風の音が または浪(なみ)の音が あるいは小鳥のさえずりがきこえたなら あなたの想いを伝えてください」

突然の永遠の別れをした多くの人たちにとって、亡くなった人たちと静かに向き合うことができる風の電話。

敷地内には、震災後2年たって「森の図書館」も整備されたとか。
http://ext.yahoo.co.jp/fukko/otsuchi01/

たとえ少しずつであっても、被災者の方々の心がほぐれていきますように・・・

2013年4月16日火曜日

「いきいき生きる・・・」

               釜石小学校校歌

                               作詞 井上ひさし

                   いきいき生きる いきいき生きる
                   ひとりで立って まっすぐ生きる
                   困ったときは 目をあげて
                   星を目あてに まっすぐ生きる
                   息あるうちは いきいき生きる

                   はっきり話す はっきり話す
                   びくびくせずに はっきり話す
                   困ったときは あわてずに
                   人間について よく考える
                   考えたなら はっきり話す

                   しっかりつかむ しっかりつかむ
                   まことの知恵を しっかりつかむ
                   困ったときは 手を出して
                   ともだちの手を しっかりつかむ
                   手と手をつないで しっかり生きる

http://www.utagoekissa.com/utagoe.php?title=kamaishishougakkoukouka

震災直後 避難所となった釜石小学校で避難した方々も一緒に毎朝、歌っていたという校歌。小学校の子どもたちでも全部理解できることばに込められた想いを、改めてかみしめています。