2009年9月29日火曜日

意味不明

意味不明と言えば、お経がその最右翼。昔から法事の席で、お坊様のお経の長さに足のしびれと戦っていたことを思い出します。木魚(もくぎょ)のリズムに 乗った単調な「音」は、ありがたい経文(きょうもん)であっても、チンプンカンプン。「早く終わらないかな・・・」と思っていたものでした。

漢 文の音読である仏教のお経を、現代語訳のお経のテキストで、参加者と一緒に朗読するお勤(つと)めをしているお坊様の投書がありました。この現代語訳のお 経は、最初の頃はお年寄りから相当な反発があったようですが、若い人たちには好評で、お経に対する関心が高まったとのこと。

お経は単に亡 くなった人の霊をなぐさめるだけに唱えるものではなく、生きている人それぞれの個々の自覚と他者との共存の智慧(ちえ)と実践の書である、とこの投書の主 は記します。非戦平和の願いと、あらゆるいのちあるもの(衆生:しゅじょう)と共に生きるという精神が流れているお経の意味を理解することが、仏教の世界 へのアプローチになる、そう書かれています。

私が毎日読むのは生長の家の「甘露の法雨」(かんろのほうう)です。古い文体ですが、声に出 して読むと、そのリズムが心地よく、しっかり20分間声を出すと、気持ちがすっきりします。同じ文章を読んでいても、その日によって、こころに響いてくる ことばが違ってきます。自分自身が忘れている部分が浮き上がってくるようです。意味が理解できるからこそ、納得できるのです。

真理を伝える文章、それがお経です。意味不明でないお経の重要性を訴えたこのお坊様にこころから賛同の意を表します。

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