2009年3月15日日曜日

「おくりびと」 私達の場合

1985年10月13日。生涯病弱だった私の父が亡くなりました。呼吸器系のトラブルが続き、最後は人工呼吸器を使用していて、気管切開のため、言葉を発することはできませんでした。

当時シカゴに住んでいた私達、父の容態を気にしつつ、なかなか見舞いにも帰ることができませんでした。母が電話で「せめて東京あたりに住んでいてくれたらね・・・」と言った言葉が気になって、思い切って子ども二人と私が帰国することに。

容態が悪化していた父が、孫二人(当時小4と小2)を見て、こぼれんほどの笑顔で迎えてくれました。それから2週間、とても安定し、一旦シカゴに戻ることを考え出した日の翌日、父は亡くなりました。

祖父の死を聞かされた孫二人、生まれてこれほど泣いたことはない、というように大泣きを続けました。全くなぐさめようのない二人の悲しみ方でした。「小さい時から大好きだったおじいちゃんが死んだ」、その事実にただ泣き崩れていた二人でした。

ですが、翌日、葬儀の準備が進んでいる中、写真の父に向かって「じいちゃん、おはよう」と挨拶していた二人です。何かが吹っ切れたのか、いつものように祖父に向かって話しかけていました。

その後、シカゴに戻る日を決め、帰国の準備をしているとき、子ども達が「じいちゃんをシカゴに連れて帰る」と言いだしたのです。お寺にお願いして、小さな骨壺に分骨をしていただきました。その包みを大事そうに抱えて飛行機に乗り込み、機内で足元に置いたその骨壺に足が触れると、「じいちゃんごめんね」と話し かけていた二人でした。

そのころ、私達はシカゴ郊外の街に住んでいて、近所のルーテル教会の礼拝に、ほぼ毎週通っていました。牧師様をはじめとして、素晴らしい仲間に恵まれ、親も子も教会生活を楽しんでいました。

私達の帰国後数日たって、牧師様が我が家を訪問してくださいました。リビングには一緒に帰ってきた骨壺と写真、小さな位牌(いはい)、そしてお線香立てとお 鈴(りん)を置いた「祭壇」が作ってありました。その前で、お線香をあげて、お鈴を鳴らして、祈ってくださった牧師様が、「亡くなった人に静かにに話しか けられる、何ともすてきなセッティングですね。」とおっしゃったのです。

アメリカではお葬式が終わって、遺体を埋葬すると、家族に残された個人を偲(しの)ぶものは、写真や遺品だけ。日本のように、「形式」と整え、そこで個人を偲ぶ方法がいかに、心がなぐさめられるか、牧師様はそうおっしゃるのです。

この世での別れとなる「死」を充分に悼(いた)み、悲しみを表現することは、残された人にとってとても大事です。そのためには「儀式」や「形式」が大切であり、悲しみを共有してくれる人が必要です。そして、亡くなった人の魂が私達の心にしっかり生きていることを確認する作業が何よりも重要な気がします。

今でも父に話しかける私です。そして子ども達も同じように「じいちゃん」との会話をしているはずです。父は今も私達と一緒に生きている、そう思います。

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