介護の形はそれぞれ違っていて、同じ人の介護であっても、その時々の状況によって変化する。その当たり前のことを十分にわかっているのに、日々の介護生活 の中で、自分のやっていることに自信が持てなくなる・・・
特に、動きが少なくなった母に対して、だんだん手抜きになる介護に、「これでい いのかしら」と思うことしきり。
プロの看護師さん、ヘルパーさんの対応から、学ぶことは一杯。でもそのままを実行することはなかなか無 理。「プロと家族は違う」。それは頭ではわかっているけれど、できない自分を責めているのも事実。
2007年に在宅看護を始めた時、すで に認知症の母とは「普通の」会話はできませんでした。感情のぶつかり合いは多々あったけれど、あることに対して、お互いにどう思うか、そんな会話は不可能 でした。以前ならすぐにあれこれ疑問をぶつけて会話していた母でしたが・・・
気に入らないことにはただ感情でぶつかってくる母に対して、 娘は抵抗します。言い返すのですが、すれ違いばかりで、これまた空しいことに。
今はそれも全くありません。ただただ、じっと私を見つめる 母です。あまりにも見つめるので、自分の視線を泳がせてしまう私です。不快な表情の理由を尋ねても、返事は全くありません。私の想像力が試されています。
今年の大宅壮一(おおやそういち)ノンフィクション賞を受賞した、川口有美子さんの「逝(い)かない身体 ALS的日常を生きる」。4月27日の京都新聞の「オピニオン」欄に柳田邦男氏がこの本について書かれていました。
この本は、神経の難病であるALS: 筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)のお母様を12年にわたって介護した記録です。そのうちの7 年間は全く本人の意思表示ができない状況(TLS)での介護だったとか。
話すことができなくなったALSの患者さんは、筋肉の反応で、イエ ス・ノーを表したり、50音の一つ一つを示して表現ができるのです。しかし、TLS状態(「閉じこめ症候群」)になると、全身の筋肉が全く動かないため に、本人は耳も聞こえ、目も見え、思考力も働いているけれど、意思表示の手段がなくなってしまう、というのです。
柳田氏は、この本の中 で、著者の川口さんの大きな二つの「気づき」を書いています。長くなりますが、そのまま引用します。
・たとえ沈黙したままの身体であって も、毎日豊かな語りかけをしてきて、介護者の思考を促(うなが)すのだということ。そういう中で、母の身体が「あなたたちと一緒にいたいから生きている」 と伝えるために無限の時間を求めていることに気づいたのだ。新たな身体観だ。
・人間が「生きる意味」は基本的には本人が見いだすべきもの であっても、TLSのような特殊な状況下では、愛する他者によって見いだされ得るものであり、その気づきが介護者に介護の意味を自覚させ、介護の日々を心豊かにさえするのだということ。
あるがままの日常の中で、何を考え、何を学ぶのか。介護の中で考えます。
0 件のコメント:
コメントを投稿