2016年6月4日土曜日

やったぁ〜〜〜

iPhoneを買い替えました
画面の大きな6SPlusです


色は白なんですが、ちょっとライトの加減で・・

以前のiPhoneのデータをコンピューターにバックアップして
それを新しいiPhoneに移して・・・

途中、ちょっとつまづいてサポートセンターに助けてもらって

一人で全部できた
画面も全部同じになった

やったぁ〜〜〜

もっときれいな写真が写せるんですよ!!!

2016年6月3日金曜日

目からうろこ・・・

1月31日のブログでアップした人参サラダ。本当はキャロット・ラペというしゃれた名前がついているようです。

このキャロット・ラペの紹介映像を見て「アッそうなんだ」と目からうろこ状態になった私でした。

人参をすり下ろす道具は映像の中のものと全く同じ。私は人参を手前に引いておろしていたのです。だんだん腕がだるくなっていつも途中で休憩(最低3本はおろします)。それが映像の中では、人参を向こうに押しておろしています。全く逆の動きを見て「アッそれもありか!」

さっそくまた人参サラダに挑戦。押すだけでも疲れてくるので途中で引いてみて、いつもよりも早く完成・・でした。

あの器具を使う時、チーズをおろす時も引いていたので、人参も当然と思い込んでいた私。新しい「大発見」にちょっと興奮!


2016年6月2日木曜日

パラリンピックと両陛下

1964年の東京パラリンピックの準備期間中、通訳の数が足りないことを知った皇后陛下がお友達に声をかけてボランティアを募っていらした、というエピソードを以前に読んだことがありました。

私たちの日本車いすフェンシング協会を20年来支えてくれているイギリス人のブライアン・ディッケンソンさんが、選手として東京パラリンピックに参加した時、当時の皇太子ご夫妻を何度か目にしたと話してくれたこともありました。   

朝日新聞のパラリンピックと両陛下という記事で、日本でパラリンピックを開催するために、両陛下がより深く関わっていらっしゃったことを知りました。

記事の中で、初めてのメダル獲得となった卓球男子ダブルスの選手は当時、医療用の車いすを使っていたとありました。現在のパラリンピックではそれぞれの競技で使用する特別の車いすを選手たちは使っています(車いすフェンシングも)。

1964年当時に比べると、日本においても障がい者スポーツの認知度も上がり、2020年の大会は「オリンピック・パラリンピック」と必ず連記されるようにもなりました。競技性も高まった障がい者スポーツは、スポーツとして健常者スポーツと変わりがないという認識もやっと高まってきたのです。

日本のパラリンピック、障がい者スポーツの発展は、天皇皇后両陛下のご配慮が欠くことの出来ないものであったことをこの記事で再確認しました。


2016年6月1日水曜日

みしょう


「みしょう」ということば、漢字は「実生」
種から発芽した小さな芽のこと

お寺の境内だとせっかく顔を出しても
大きくはなれないだろうな・・・

もらってくればよかった

2016年5月31日火曜日

「記憶はつながりの中に」

久しぶりに誰かに手紙やメールをだすときの常套句(じょうとうく)「お変わりありませんか」。

生物学的な解釈をすると、生命体としての人間の細胞の構成成分は常に分解されつつ、同時に合成され続けているというのです。更新され続ける私たちのからだは一年もたてば物質的にはほとんど別人になっているというのです。だから本当の挨拶のことばは「お変わりありまくりですね」がいいとか。

生物学者の福岡伸一さんの連載コラム、「福岡伸一の動的平衡」で読んだ文章。専門的ではあるけれど、新聞の掲載文章ですから、いつもより「ゆっくりめ」に読めば、大体わかる・・というかわかったような気持ちになれます。

物質的にすっかり変わってしまう私たちがなぜ記憶を保つことができるのか。福岡さんは、それを環状線にたとえています。レールや枕木は時とともに古くなって取り替えられている(開通当時のものは何も残ってはいない)けれど、駅の位置は常に同じで、その関係性は全く変わらないというのです。リンクを貼ってもそのまま読めないようなので、書き直してみましたが、自分のことばで書くのは難しい・・・

「記憶は物質として保持されているのではなく、関係性として保持されいるのである」というコラムの最後の文章に、強く惹かれた私。大切な人との記憶を持ち続けられることに感謝。


2016年5月30日月曜日

2016年5月29日日曜日

金曜日のコンサート


佐渡裕(さどゆたか)さんが昨年音楽監督に就任した
ウィーンのトーンキュンストラー管弦楽団
びわこホールの演奏会に行きました
一人で、写真を持って

中学・高校時代の親友
東京芸大のバイオリンを卒業してウィーンに留学
それからずっとウィーンに住んでいました
彼女が所属していたのがトーンキュンストラー管弦楽団

3年前の6月、彼女は亡くなりました
日本に戻ることなく・・・

大ホールに重厚な弦楽器が響き渡りました
あの舞台に彼女がいたかもしれない
膝の上の写真ではなくて

15年前にウィーンの彼女のアパートに滞在
その折に伴奏した楽譜が手元にあります
「次までにはちゃんと練習しておくからね」
その約束を果たすことはできませんでした

学生時代のこと
日本に帰国した彼女と会ったこと
彼女が案内してくれたウィーンの街のこと
ずっと彼女のことを思っていたコンサートでした