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2018年3月11日日曜日

7年目

現在使っている10年日記
最初の年は2011年

3月11日のページには
「一体なにが起こったのだろう」と
戸惑いを記している私

日を追うごとに
原発事故の記述が増えてきます


それから7年分のスペースが埋まりました

あの日の戸惑いに答えは出ていないような
そんなことを7年目に感じます

2016年4月6日水曜日

事故処理

事故から30年となるチェルノブイリ原発。チェルノブイリ 新シェルターが報道陣に公開されたという記事。爆発した4号機をコンクリートで覆っていた「石棺」の痛みがひどいので、それをスッポリ覆うシェルターを新しく作ってかぶせることになったというのです。

今後100年間、放射性物質の飛散を防ぐための施設。建造費は最終的に2000億円近くかかるとか。廃炉の作業は「これから」。安全に処理が終わるのは、一体いつになることか。


「地球を滅ぼすために原発やってんだか、処分場もできないうちに、なんでやんだかって、あの精神が俺はわかんない」

福島の原発事故でふるさとに住めなくなった男性のことば。日本の原発稼働再開の動きへのコメント。

人が歴史に学んでいかなければ、何から学ぶというのでしょうか?これ以上、次の世代に大きなマイナスの遺産を作っていかないためにも。

2016年3月16日水曜日

福島第一原子力発電所

ほぼ日に掲載された
福島第一原子力発電所
長い記事です

福島第一原子力発電所が今、
どういう状態なのか
一気に読み通しました


2015年3月24日火曜日

風化だけじゃない

東日本大震災や福島の原発事故に対しての風化が4年後の現在、すでに進行している、その想いで2月11日に「風化」というタイトルのブログをアップしました。

ですが、3月11日以降、いろんな報道の中に、風化しているだけではなく、新しい取り組みがあちこちに始まっていることを知りました。

日本カーシェアリング協会もその一つ。車をなくした被災者の人たちが使える車を提供していこうという試み。提供された車一つずつに提供元と提供先が記載されています。小さな動きが継続していくうちに、より多くの人を巻き込み、地道に被災者の方々に寄り添った活動が続いているようです。

どんなに辛い、大変なことのあとでも、人の善意によって蒔かれた種が少しずつ芽を出していくのですね。忘れないことはもちろん大切ですが、善いこと、嬉しいこと、楽しいことにも目を向けていきたいと思いました。

2015年3月13日金曜日

「奇跡」のことばの陰で

岩手県釜石市。2011年3月25日のブログで取り上げた津波てんでんこ。津波への防災教育を2004年から続けてきた成果で、地震発生当時、市内の小中学生にいた生徒に一人の被害者も出さなかったとして「釜石の奇跡」と呼ばれるようになっていました。

震災後4年目の3月。市内の小学校の事務職員だった女性が亡くなっていた、という記事がありました。残されたご主人は、なぜ奥さんだけが逃げなかったのか、その真相を知りたいと、学校や市との話し合いを繰り返しました。実際に学校関係者の中に被害者がいたのに「釜石の奇跡」と呼ばれることへの違和感も訴えたということです。

「児童の親からの電話に備えて職員室に残ったのかもしれない」というのが、このご主人が得た真相に関する情報だったとのこと。学校の用務員さんにも「避難しなさい」と奥さんが声をかけて逃がしていたという証言も出てきました。

釜石市ではこの「釜石の奇跡」ということばを、奇跡ではなく訓練の成果だったとして「釜石の出来事」と言い換え、内閣府の防災白書の原稿も修正されたのだそうです。

4年前に「てんでんこ」のブログを書いた時、私もただただ「すごい」と感心していたはずです。でもその出来事には、こんな隠れたエピソードがあったのです。

多くの出来事の中には、表面的に現れている、報道などで私たちが目にすることだけではなく、色んな状況があるのを改めて思います。東日本大震災の死者は1万5891人、行方不明者は2584人。数字でひとくくりにすることなく、その家族、関係者の方々、そして多くの被災者の気持ちに想いをはせていたいものです。

2015年3月12日木曜日

東北まぐ

一ヶ月に一回、メールで届いていた東北まぐ被災地の現状、被災地で働く人、被災地の名産品、いろんな情報が送られてきました。

2011年8月からスタートしたこのメールマガジンを読み出したのはいつだったのか、それは忘れてしまいましたが、定期的に送付されるメールマガジンは、私に被災地を忘れないで、と話しかけてくれているようでした。

2015年3月11月号で一区切りをつける、と制作者からのあいさつがありました。

これからも私たちが「忘れない」ための発信を期待しています。写真がとてもきれいなメールマガジンでした。これからの映像発信も楽しみです。

2015年3月11日水曜日

4年目


ラジオで被災地からのお便りを聞いていました
仮設住宅のこと、新しい町づくりのこと
画面はなくても心の中に情景が浮かびます
現地には行けなくても、忘れないでいたいと思います
これからも・・・

2015年2月11日水曜日

風化

2月11日、あと一ヶ月で東日本大震災から丸4年。

脚本家の倉本聰(そう)さんが執筆した、福島の原発事故をテーマとした舞台劇ノクターンー夜想曲。故郷に戻れない福島の人たちのこころを描き出すために、ていねいな取材をくりかえした、とありました。

その倉本聰さんのことば:風化が堂々と進んでいる

「風化」とは本来は自然の営みの中で物が変化する意味ですが、人間のこころを表すと「無関心」が根底にある、寂しい響きのあることばになるように感じます。

「忘れられる」ことの寂しさは、誰しも知っているはず。「忘れない」でいたいものです。




2014年7月11日金曜日

3時間45分

途中10分の休憩をはさんだ3時間45分のドキュメンタリー映画、「遺言ー原発さえなければ」http://yuigon-fukushima.com/

東日本大震災翌日の2011年3月12日から福島でカメラを回していたフォトジャーナリスト二人。福島県飯舘村(いいたてむら)の家族が過ごしたその後の三年間の記録。音楽、ナレーション何もなし。家族や仲間の会話や撮影者である「監督」の声もそのまま。

営々と気づいてきた生活が根こそぎ奪われる現実を、淡々と映し出す映像。厳しい現実の中から、次のステップに踏み出す若い酪農家たちの姿と、初めて流れるチェロの曲のエンディングに大きく深呼吸した私でした。

2014年5月21日水曜日

ふくしま再生の会

ふくしま再生の会のホームページです。
http://www.fukushima-saisei.jp/

5月25日に東京で活動報告会が開催されます。2011年3月の原発事故直後の6月から福島県飯舘村(いいたてむら)を拠点に活動を続ける団体です。私自身、直接活動には参加できていませんが、ご縁ある方々への「ささやかな」後方支援を続けています。

この会のモットーは「共感と協働」、活動方針は「被災現地において」「継続的に」「被災者と協働して」

私たちの仲間は、2011年から12年にかけて、飯舘村、東京、京都をスカイプでつないだ「トークイン」を三回開催しました。「留学生の方々、みなさんの母国に福島や飯舘村の現状を伝えてください。今日は話を聞いてくださってありがとうございました」と話された飯舘村の方のことばを思い出します。

「福島・飯舘村 再生の意味」というタイトルの報告会。飯舘村の方々と地道に続けた活動を通した生の声が聞けることと思います。関東の方々、ぜひご参加ください。


2014年3月11日火曜日

心のケア #2

3月になって、東日本大震災に関する報道が増えました。将来の見通せない仮設住宅での生活が今も続いている現実を目にします。

その一方、復興の業務に携わる方々についての報道はそれほど多くないように思います。自らも被災者であっても、自治体職員として、原発事故処理の担当者として奮闘している方々のことです。

特に原発関係者の心の傷が非常に深刻であるという精神科医の文章を読みました。身内や友人をなくした人も多い。仕事では猛烈なストレスにさらされる。仮設のプレハブで寝泊まりして、暖かい食事もとれず、命がけの仕事をしながら、社会的な批判、逆風を受ける。そんな状況にある原発関係者です。

東京電力の企業としての責任は今後も問われるべきものであっても、事故現場で収束のために働く方々の責任は、東電のそれとは全く違うものです。

このコラムを書いた精神科医はこう続けます。復旧や復興は、それに携わる人々の体と心が健康でなければ立ち行きません。働く人への「敬意」と「ねぎらい」が、心の傷の回復の鍵になると思います。

大変な作業が続く原発事故収束業務、ごくろうさまです。私たちみんながそう思い続けていきたいものです。

2013年11月7日木曜日

槌田劭氏

(夏前に下書きしていたブログ、なぜかアップしないままでした。講演会でお話を伺って、ぜひこれもアップしておきたいと思いました。)

いつのことだったのか、随分前になるので、お目にかかった年はわかりません。でも暖かいお人柄は今でもはっきり覚えています。「使い捨て時代を考える会」を1973年に立ち上げた槌田劭(つちだたかし)さん。誰に紹介されたのかも忘れましたが、当時、活動拠点だった京都大学近くのお宅を訪問し、当時まだ珍しかった有機農法についてお話を伺った私でした。

「消費が美徳といわれた世の中の流れを見直し、大量生産・大量消費、公害や資源の枯渇を招いたりする暮らし方を変えていくことを基本理念とする」とは、「使い捨て時代を考える会」の理念です。エコという考え方など、全くなかった70年代前半から、活動がスタートしていたのですから、時代を見る眼の確かさを感じます。

金属の性質を研究する科学者であった槌田さんが、科学の限界を悟って、研究者としての仕事をやめ、その後原発と深く関わっていらっしゃったことは知りませんでした。今年の4月から5月にかけて、関西電力大飯(おおい)原発の再稼働反対を訴えたハンストを京都市の関西電力ビルの前で続けられました。ご自身の脱原発への活動は40年を超しているのです。

便利さに流されることなく、 これからの生き方を真摯(しんし)に考え続ける槌田さん。「将来、電気が足りなくなる時が来るかも知れない。少ない電気を奪い合うのでなく、分かち合う中で幸せを紡ぎ出していきたい。人間にはそうした“生きる力”がある」という言葉、しっかりかみしめたいものです。


月刊 現代農業2011年11月号 食べることが責任を取ること:

2013年11月5日火曜日

「東北からの風」

秋は学園祭の季節、我が家の近く、京都精華大学の学園祭で、「東北からの風」という講演会シリーズが開催されました。http://www.kyoto-seika.ac.jp/info/event/event/2013/11/01/19518/

初日の講演、槌田劭(つちだたかし)さんのお話「福島に心を寄せて」を聞きました。東日本大震災から二年半。生活を根底からくつがえされた方々に、わたし達はこころを馳(は)せているでしょうか。他人ごとではなく、自分の問題として、震災後の日本の現状を見つめて、自分ができることを探しているでしょうか。

賑やかな学園祭、大音量のライブの歌声が聞こえる会場でした。講演会が始まる前に挨拶なさった先生によると、騒ぐだけの学園祭は嫌だ、という学生たちが、講演依頼も含めて、全てを自分たちでやったのだそうです。「交通費も自己負担でお願いします、というような非常識なお願いを講演者の方々は受けてくださったのです」とのこと。

槌田さんが紹介なさった「福島からあなたへ」(武藤類子著)という本をさっそく手に入れました。2011年、6万人が集まった「9・19 さようなら原発集会」の会場で武藤類子さんが話されたメッセージ。チェルノブイリ原発事故以来、原発反対運動に携わる方ですが、その活動は、いつも「やわらか」で「しなやかな」女性のものだそうです。メッセージに込められた静かな決意、反発、希望。声を出して読んでみると、約7分。

今、改めて東北、原発事故を考えます。





2013年3月16日土曜日

NDA

NDA: Nuclear Decommissioning Authority (原子力廃止措置機関) 2005年に設立、イギリス政府からの年間4500億円の予算で運営される組織です。http://www.nda.gov.uk/  政府の外郭機構、というようなものでしょうか。

安い電力供給が可能になるとした原子力発電。今回の福島第一原発事故でも明らかになったように、一旦作った原子力発電所を廃炉にするための作業は、私たちの想像を越えた途方もなく大変なもの。


NDAの所長のインタビューを聞きました。

NDAには原子力専門家やビジネス経験者が働いていて、政治家は一人もいない。政治家は長くても5,6年先のことを考えるだけだが、廃炉には世代を越えた、長い年月がかかる。揺るぎのない持続性が必要となる。

電気の便利さを享受(きょうじゅ)する私たちが、負の遺産として将来の世代に残してしまう原子力発電所。少しでもその負担を減らしていくためにも、大きなスパンで物事を考えられるNDAのような組織が必要とされているはずです。日本にも・・・

2013年3月11日月曜日

2013年3月11日


二年が過ぎました

「震災の記憶が遺族だけのものになっていくのは悲しい」

津波で8歳と3歳のこどもを亡くした父親のコメント

原発事故で避難を続ける方々のことも
しっかり心にとめておこうと思います。

2013年1月25日金曜日

「福島、飯舘 それでも世界は美しい」

久しぶりに一晩で一気に読みきった本です。


著者の小林麻里さんは2004年39歳での結婚を機に、福島県飯舘村(いいたてむら)に移住し、自然卵養鶏をご主人と営みます。そのご主人が2007年、肺がんで3ヶ月の闘病で急逝。地域の仲間に支えられながら、少しずつ自分の生活を作りつつあった時に3・11を迎えることに。

大きな揺れ、その後の原発事故による混乱。読んでいて胸が痛くなる状況の中、「放射能よりも恐ろしいのは心が壊れてしまうこと」と考え、福島市の福祉NPOの職場での事務の仕事を続け、飯舘村の家に週末に戻る生活を続ける小林さん。

お互いに支えあった飯舘村の仲間の多くが去ってしまっても、ご主人が亡くなったその場所が自分の戻る所と心に固く決めて、自然とともに暮らす様子が書かれています。

飯舘村から逃げないのは自分自身から逃げないことだという小林さんは、放射能に汚染された飯舘村の自然の美しさに改めて気づきます。そして、そこに生きる鳥や虫に心を寄せ、すべての命が連なっていることを想うのです。

「それでも世界がこんなにも美しいのはどうしてなんだろう」

「天はまだ私たちを見捨てていないのだ、私たちは奇跡のような世界に生かされているのだ」


抜き書きしたい文章が一杯です。ブログで全てをお伝えすることは無理です。多くの方々に読んでいただきたい一冊です。

2013年1月12日土曜日

デジャブ経済

新しい政権となり、何か「違う」ことをやってくれそう・・・という期待感が独り歩きしているような気配。景気回復のための経済政策が次々に発表されている現実に何か違和感を感じている中、先日、NHKラジオ「ビジネス展望」で慶応大学教授の金子勝(かねこまさる)氏の「どこかで見た安倍政権の経済政策」というお話を耳にしました。http://www.nhk.or.jp/r-asa/business.html

経済の専門家として、今回の政策が以前の「・・内閣」の「・・政策」と同じ、というように、細かい説明がなされていました。これからの新しい社会への展望は何もなく、社会を支える新しい産業創出のアイディアもない現在の政策。単なるバラマキにしかならないとしたら、これからが「失われた30年」となる可能性が大きいとのことでした。そして、この経済政策を「デジャブ経済」、以前にどこかで見たことのある経済政策と命名されていたのです。

福島の原発事故では、原子力政策の盲点が明らかになったのに、政界はもとより、東京電力の誰もが責任を取っていない。同じことが、多額の赤字決済となった大企業でも言える。無責任な人がはびこる社会への大きな警鐘(けいしょう)を鳴らしたビジネス展望でした。

「何か新しくなるかもしれない」という単純な期待感ではなく、ことの本質をしっかり見る目を養いたいものです。


2012年10月11日木曜日

原発作業員の現実

東日本大震災、福島原発事故発生から1年と7ヶ月。時の流れの中で、ともすれば忘れてしまうのが、事故を起こした原発で働く人たちのこと。

事故発生後、身の危険も顧(かえり)みず、事故対応に当たった作業員の人たちを「Fukushima 50」として 内外の報道機関が大きく伝えていましたが、今現在も2000人近い作業員の方々が日々、高い放射線量のもとで働いているのです。

その作業員の写真を26歳の写真家、小原一真(おばらかずま)さんが撮り続けていることを知りました。 http://news.nicovideo.jp/watch/nw367066

原発で働く理由はそれぞれに違う作業員たちと親しくなる中で、この人達の存在を伝えていきたいと強く感じた小原さん、今年の夏にスイスの出版社から「Beyond Fukushima  福島の彼方に」という写真集を出しました。http://resetbeyondfukushima.com/

福島の取材を続ける小原さんは、大きな事故によって生活の激変を体験している福島のこどもたちが、おとなのすることを、良いことも悪いこともとても的確に見つめていることに気がついたと言います。そのこどもたちが描く未来像のためにも、現実をしっかり伝えていきたいと考えているのだそうです。

今後、事故の終息作業をする作業員の確保はより難しいものとなっていきます。とてつもなく長い作業が今後予想されているのです。

私達は将来の世代に大きな「負担」を負わせてしまいました。原発の作業員の方々へのより適切な対応とともに、少しでもその負担が減らせるために何ができるのか考えたいと思います。

2012年9月21日金曜日

「祈りの作法」

福島県三春町在住、臨済宗妙心寺派の福聚寺(ふくじゅうじ)住職、芥川賞作家の玄侑宗久さんの「祈りの作法」を読みました。

昨年の3月11日以降、Happy Islandだった福島は「フクシマ」とカタカナで書かれるようになり、そこに住む人たちは、正確な情報がないままに、人生を根底からくつがえされ、先の見えない生活を強いられています。この本は、原発事故発生直後から三ヶ月間の「震災日記」を含めて、玄侑氏の想いが綴られています。

「あの時」以降 、日本国中が不安の中にいて、どうしていいのかわからない気持ちを抱えた人たちであふれていました。その中で、「祈り」について改めて考えていた私でした。何もできない、でも祈ることはできる、そう気がついたからでした。

祈るとは、他を思いやること。震災後、天皇皇后両陛下の被災者へのお気持ちが、その祈りの真髄を表していたこと。このような経験をした日本人全てが、全世界の人たちのために、真剣に祈っていかなければならないこと。福島に住む人たちも、厳しい現実の中で、祈りのこころを持ちたい、と筆者は記します。

「人は“祈り”を持つことで、積極果敢にもなれるのだと思います。無力だからこそ、じつに膨大な力を発揮することもできるのです。自分が無力だと痛感するからこそ、“親愛の情”も深まり、“祈り”も真剣なものになり、そこに“雄々しさ”も発揮されたのではないでしょうか。復旧・復興という大事業にあたり、とにかく“呪い”ではなく、“祈り”の作法を用いてほしいのです」

付箋をつけたページを何度も読み返しています。


2010年8月28日のブログも玄侑宗久氏についてでした。

http://gorosatomama.blogspot.jp/2010/08/2.html

2012年9月3日月曜日

「原発危機 官邸からの証言」

久しぶりの「一気読み」でした。著者は京都出身の参議院議員、福山哲郎さん。官房副長官として3・11を経験した官邸の日々が綴られています。

情報が交錯(こうさく)する究極の混乱の中、何をどう判断するのか。甚大な津波被害が徐々に明らかになる中、原子力発電所の想像を絶する事故への対応が迫られます。東京電力の情報に頼るしかない状況の中、全ての事実が知らされていないことが次々に判明していきます。それを非難している時間もありません。国民への情報伝達、現場への指示、決めなければならないことが分刻みで押し寄せてくるのです。

政府の対応として不備があったことも率直に記されています。「ベストを尽くした」と自己弁護をするのではなく、あの時に、あの立場にいた人が、自分のメモ(「福山ノート」と呼ばれるもの)に肉付けをする形でまとめた記録です。

「原子力ムラ」と言われる専門家達との歯がゆいやりとりも多く書かれています。それを含めてこの経験を今後、どう活かしていくのか、今後のエネルギー対策はいかにあるべきかを提案しています。

3・11以降の政府の対応には多くの批判がありました。メディアもあれこれ書き立て、報道してきました。私たちはその中で、何が本当なのか、わからないままの日々を過ごしていました。

原発事故で直接被害を受けた方々が当時、突然生活が断ち切られた状況でどんな気持ちで過ごしていられたのか、改めてそれを思いました。



鎌田實氏のこの本に対してのコメントです。
http://kamata-minoru.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/138-4d94.html