福島県三春町在住、臨済宗妙心寺派の福聚寺(ふくじゅうじ)住職、芥川賞作家の玄侑宗久さんの「祈りの作法」を読みました。
昨年の3月11日以降、Happy Islandだった福島は「フクシマ」とカタカナで書かれるようになり、そこに住む人たちは、正確な情報がないままに、人生を根底からくつがえされ、先の見えない生活を強いられています。この本は、原発事故発生直後から三ヶ月間の「震災日記」を含めて、玄侑氏の想いが綴られています。
「あの時」以降 、日本国中が不安の中にいて、どうしていいのかわからない気持ちを抱えた人たちであふれていました。その中で、「祈り」について改めて考えていた私でした。何もできない、でも祈ることはできる、そう気がついたからでした。
祈るとは、他を思いやること。震災後、天皇皇后両陛下の被災者へのお気持ちが、その祈りの真髄を表していたこと。このような経験をした日本人全てが、全世界の人たちのために、真剣に祈っていかなければならないこと。福島に住む人たちも、厳しい現実の中で、祈りのこころを持ちたい、と筆者は記します。
「人は“祈り”を持つことで、積極果敢にもなれるのだと思います。無力だからこそ、じつに膨大な力を発揮することもできるのです。自分が無力だと痛感するからこそ、“親愛の情”も深まり、“祈り”も真剣なものになり、そこに“雄々しさ”も発揮されたのではないでしょうか。復旧・復興という大事業にあたり、とにかく“呪い”ではなく、“祈り”の作法を用いてほしいのです」
付箋をつけたページを何度も読み返しています。
2010年8月28日のブログも玄侑宗久氏についてでした。
http://gorosatomama.blogspot.jp/2010/08/2.html
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