2010年8月28日土曜日

臓器移植 #2

7月に臓器移植法が改正され、脳死になった人の家族の同意があれば、臓器提供が可能になりました。それから、3例、本人の意思確認ができない状態での提供 がありました。「どこかで、たとえ臓器だけでも生きていてほしい」という家族の願いのもとに提供され、臓器移植が実施されたのです。

「脳死は人の死か」が問われ続ける中、臓器移植のために海外にまででかけることを考えざるをえない患者や家族にとって、国内での臓器移植の可能性が高まることへの期待はいくばくかと思います。

昨年、息子のお嫁さんのお父さんが、亡くなった方からの二度目の腎臓移植を受けました(一度目は弟さんからの移植でした)。けやき便り: 5月26日 2009:身近な人の「臓器移植」を経験して、私自身、臓器移植に対しての考え方が少し変わったとは思います。

ただ、臓器移植、そのものにはまだまだこころから納得しきれない「何か」を感じる私自身です。その「何か」を考え続けている中で、芥川賞(あくたがわしょ う)作家で僧侶である玄侑宗久(げんゆうそうきゅう)氏の「死んだらどうなるの?」という本に出会いました。「ちくまプリマー文庫」という、中高生向きの本です。図書館で見つけ、手元におきたくて注文し、友人にも宣伝してしまったほど、少ない字数の中に中身が凝縮された「読み応(ごた)え」のある本でし た。

この本の中の「臓器移植」に関する記述、とても長くなりますが、引用します。私にとってとても「腑(ふ)に落ちる」文章でした。


「これまでは、人が死ぬのは『寿命』と考えられてきた。たとえ病気でも事故でも、あるいは大地震で死んだとしても、最終的には『寿命』という考え方でその人の 人生が終わったことを容認してきた。それは人体を、あくまでも手の加えようがない総合的なシステムと見ていたからだろう。これは東洋医学の考え方といえ る。」

「しかし人体という総合システムを、各部品の集合体と見る見方が西洋から入った結果、死というのはどこかの部品が悪くなったのに、それを取り替えることができないために起こる、という見方が可能になった。(中略)」

「いずれにせよ、死が特定の臓器のせいで起こるなら、それを交換しよう、というのが臓器移植である。(中略)」

「臓器移植問題が表面化した当初、仏教界はさまざまな意見で揺れた。臓器をあげる立場から『布施』(ふせ)すべきだという意見もあれば、『ほしい』という立場 を批評する考え方もあった。みな仏典(ぶってん)などにその根拠を求めようとしたのだが、そんな問題をお釈迦さまが想定していたはずもない。言ってみれ ば、まったく生命観が違うのである。問題は、そういう異質な生命観を認めるかどうか、ということだったのだと思う。(中略)」

「脳死が死だというほど脳を偏重するのは、一種の信仰にちかい。じつは心の在りかもわかってはいないのが現状なのである。」

「私としては、今は我々の全身を、すべて『かけがえのない』機能の総合的なシステムと思っておきたい。それはつまり、現在知られている各臓器の機能だけでなく、もっと有機的で理解しにくい相互交流システムがあるのではないか、ということだ。」

「死とは、対外的なコミュニケーションの終わりであると同時に、そうした内部の臓器間のコミュニケーションが絶えることでもある。」

「どの時点で『死』と呼ぶかは、今のところ極めて社会的、ないし政治的な事柄に思えるのである。」

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