2009年2月8日日曜日

洗面台の前で

朝の母のお仕事。トイレを済ませてから、まず口をゆすいで、歯ブラシを使って、それから絞ったタオルで顔をふきます。一人でできることはほったらかす私の「手抜き介護」ですから、時には歯ブラシをくわえたまま、突っ立っていることもありますが、それはそれ・・・

お湯をはった洗面器を目の前において、絞ったタオルを渡すと、今朝の母は顔をふいたあと、ちゃんとタオルを自分ですすいでいます。「これは捨ててもいいの?」と洗面器を見ながら言うので、「どうぞ」と答えると、お湯をちゃんと捨てました。そして・・・

いつもなら、ここで「着替えましょう」と声をかける私ですが、今朝はじっと見ていることにしました。

しばらく鏡の中の自分を眺めていた母はもう一度、蛇口から洗面器に水を入れました。蛇口の操作ができたのですから、今朝の母はけっこう「スイッチ・オン」状態です。再度タオルを絞って、もう一度水を捨てて・・・

この一連の母の動作を見ながら不思議な気持ちになった私でした。

母の介護をスタートさせた当初、混乱の中で色んな言葉に出会いました。このブログを書き出した4日目の4月29日に「doing」と「being」について書きました。年を取るということは、何かを「する」存在ではなく、ただそこに「居る」存在になるのだと。老いるということ

母の今朝の洗面台での動きは、doingだったのですが、繰り返す必要のない動作も続きました。「無駄」な動きをしていたことになります。でも今のbeingの存在となった母にとっては、ごく自然な動きだったのでしょう。

母のbeingの存在をどれだけゆったりした気持ちで見ていられるのか、それが私がこの介護を通して学ぶべきことなのだと思っています。今の母なりのdoing(デイケアなど)をはさみながら、母の「今」をどれだけ受け入れていけるか。それが私の学びです。

そして思ったのです。母の魂はこの「今」を通して何を学んでいるのだろうか・・・と。人は生きている限り、その学びは続いています。「ぼける」ことで、この社会の「あれこれ」から離れた母ですが、まだまだ一杯学ぶことはあるはずです。

この娘をもっと鍛えるためにも、母の学びも続くのでしょう。きっと。

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