1月23日の朝日新聞投書欄「私の視点」に、「障害を“障がい”とする意味は」という文章がありました。投稿者はご自身が聴覚障害者の方です。
行政が公式文書に「障がい」という表記を使い始めたのはここ5,6年のこと。私も昨年の9月29日に障害?障がい?というブログを書きました。言葉の言い換えに関しての疑問を抱いたからです。
点字ブロック上の置かれた自転車、車いすが乗り越えられない段差など、障害者が日常生活で不便に感じること、それこそが「障害」であるとこの投書者の後藤勝美さんは書いています。
マスコミはよく「障害を乗り越えて」と書くが、障害に「負けない」のであって、「乗り越える」のはほぼ不可能に近い。
こうした問題は、社会環境や政策的不備で起きている不自由さであり、それこそが「障害」なのである。言い換えれば、そいう人は「社会的被害者」と言えるし、「害」には、その意味が含まれている。
この被害を取り除いていくことが必要なのだ。単なる言葉上の問題ではない。「害」を平仮名に変えたところで、前述の社会的被害は何一つ変わるわけではない。それどころか、その被害をあいまいにし、あげくの果てに「害がなくなった」という風潮を広める危惧(きぐ)を覚える。
障害者を「障がい者」と表記することで、「障害者に配慮しています」というイメージを作っている。「あなた達は私達とは違うのです」・・・そんな雰囲気を感じるのは私の思いこみでしょうか。
障害を持つ人にやさしい街は老人にもこどもにもやさしいはずです。みんな、私達、「We」の感覚があれば、漢字を平仮名に置き換える前に考えるべきこと、やるべきことが見えてくるはずです。行政も、私達も・・・
2 件のコメント:
こんにちは!
この新聞記事について私も自分のブログに書こうと思いながら検索していたらココにたどり着きました。
私もこの方の投稿を読んでうんうんうなずいてしまいました。周りが『がい』とひらがなにした方がよい、だとか実際にしているのを見ながら、何となく違和感を感じていた私。
『害』になっているのは、社会環境である・・本当にそうだと思います。
周りの理解や配慮があれば、普通に生活できる方だっているのですから!
同じ新聞記事を見て、同じように感じていた方からのコメント、とても嬉しいです。
障害者スポーツ、車いすフェンシングにここ10年関わってきた経験からも、「障害」という文字そのものにこだわる「むなしさ」を感じる私です。
障害者と呼ばれる人たちは、確かに何かの障害があるのですが、その障害も含めて、その人と「普通に」付き合うことの大切さ、楽しさを経験しました。
仲間として行動するとき、障害者だ健常者だという「区別」はなくなります。みんな顔が違うようにそれぞれが違うのです。
「あなた達は私達とは違うのよ」という感覚の「違い」ではなく、「みんな違っているのが当たり前。だからみんな同じ仲間なんだ」という思いで生活ができたらいいですね。そうすれば「みんな」が生きやすい社会環境がきっと生まれてくるはず。そうなってほしいですね。
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