2009年6月29日月曜日

法廷通訳

私が通訳ができるようになったきっかけは、ガン患者さんたちの勉強会で通訳を頼まれたことからでした。まさしく「ぶっつけ本番」。講師はイギリス人女性。緩和ケア(当時はターミナルケア)専門の看護職の方でした。

専門用語を連発することもなく、ゆっくりしたわかりやすい英語に助けられたというものの、30分弱の講演での私の緊張は、今思い出しても身震いするものでした。

私のことば、つまり日本語が聞き手に届く「ことば」であることに気がついた時、その責任の重さに文字通り背筋に冷たいものが走りました。ガン患者さんやご家族が私のことばから、生きるためのヒントをつかもうと必死で耳を傾けていらっしゃるのがわかったからです。


「法廷通訳の訳し方に注目を」という新聞の投稿記事がありました。裁判員制度がスタートする、この時期、法廷通訳のことばの重要性を提起しています。

模擬裁判員と模擬通訳を使って行った法廷実験の報告がありました。

被告人が被害者に口汚くののしられ、被害者を刺してしまった状況で、被害者の外国語の暴言を通訳が正確に訳すことができず、「大したことをしていないのに、刺されて気の毒だった」という模擬裁判員の反応。

通訳が明確で自信のある話し方をした場合と、ためらいがちに多少弱々しい話し方をした場合、被告人は同じ話し方をしたにもかかわらず、前者の発言が信頼できるように模擬裁判員は感じたこと。

さらに、模擬裁判員は、通訳人の口から出た言葉がそのまま被告人の言葉だと、何の疑問も持たずに受け止めたことが報告されています。


私が最初の通訳の現場で感じたそのものが、この記事にも書かれていると思います。通訳の技量が話の内容をここまで大きく左右してしまうのです。

人の命に関わること、裁判での量刑に関わること、どちらも人の人生を決定づける可能性があります。今後、外国語を話す人を日本の法廷で裁く事例は増加する一方だと思います。

法廷通訳のこの記事は、改めて「ことば」の持つ意味や大きさ、責任を思い出させてくれました。

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